ふるさと物語 2 志波城

「広報しわに掲載されたものを原文のまま転載しています。」(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語(2)」

志波城

エゾの地とよばれた北上川流域に、中央政府が開発の手をさしのべたのは平安初期の事であった。
即ち延暦二一年には胆沢城、翌二二年には志波城を築き、共に北上平野開発の拠点としたのである。
勿論、水田開発が主な目的であったが、滝名川や彦部川には、かなり豊富な砂金が埋蔵されていたと思われるふしがあるから、これらの資源開発も併せて行われた事であろう。
志波城の位置については、長い間今の城山だとする見方が強かったが、あのような山城は、中世の築城様式であって平安朝のものではない。城といっても水田開発の為のものであるから、水田を作るに好都合な平坦地に方八町の区画をし、そのまわりを木柵でめぐらし、内部に役所、兵舎、倉庫、等の建物を配したのであった。
志波城の鎮兵は、主として関東方面の出身者であった。鎮兵というのは、征伐の余暇を見て開墾に従事する屯田兵の事で、彼等には一日二升の米が与えられ、武器や衣服は全て官給であった。
さて、平坦地に志波城の位置を求めるとしたら何処になるであろうか。これについても、北日詰説、二日町新田説、北郡山説、間野々説、鳥谷が崎城(花巻)説、宮野目方八町説、等、諸説があってまだはっきりした事は分からない。
この志波城は、築城十年後の弘仁四年頃には廃止になったと思われるが、その理由は『河川に近いためしばしば洪水を受けるから』という事になっている。従って、川の近くで洪水を受けやすいような場所という事になるが、果してそれが何処であろうか、二年前から、岩大の板橋教授を中心に予備調査を続けてきたが、ここぞという決め手をつかむには至っていない。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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