ふるさと物語 6 水田耕作のはじまり

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語(6)」〈昭和37年8月5日発行「広報しわ」(第85号)掲載〉

水田耕作のはじまり

志波城はエゾに備えての城塞であると同時に、中央政府による土地開発の拠点でもあった。言葉を換えていえば、武装開拓団の本部であり、国立の農業試験場でもあったのである。従って志波城を建てた究極の目的は、国家財政による北上川流域の総合開発にあったのである。勿論、その重点は水田開発にあったことはいうまでもない。
この志波城には二千人の鎮兵の外に令制兵士や検視を含めたかなり多数の兵員が配置されていたと考えられるし、それ以外に関東方面から移民された柵戸(きべ)といわれる労務者も配属されていたが、これらの人々は志波城の本部に駐屯するだけでなく、周辺の要地にも支城を築いて分遣されていたと考えられる。片寄せの上久保部落から当時のものと推定される柱脚が出土しているが、これはこの支城と関係のあるものではなかろうか。また、盛岡市太田、都南村乙部、花巻市東宮野目などに方八丁の地名が残っているのは、志波城関係の支城遺跡の伝承と考えたい。これらの支城に分遣されたにとびとは志波城に駐屯する人々と同様に、一方ではエゾを宣撫し討伐しながら、一方では適地を求めて水田を開き、更にエゾ達にも水稲栽培技術を普及したものと考えられる。こうして辺境の紫波町にも次第に水田耕作が広まるようになったのである。今から一一六〇年程前のことである。
それでは、志波城以前には全然水田耕作がなされていなかったのであろうか。明証がないので断定できないが、しかし既に奈良朝の末期には、エゾ達も集落を中心として組織化され、中央文化を吸収していたと思われる節があるからその背景には水田耕作が芽生えていたと考えたい。
郷土の水田開発は、国の財政投資によってなされたことに大きな意義がある。しかしその後は殆どこのような恩恵に浴す機会はなかった。ここに後進性が生まれてくる大きな要因があったのである。
---佐藤 正雄(故人)---

ヘッドラインから

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