ふるさと物語 9 頼朝軍の陣が岡宿営

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語(9)」〈昭和37年11月5日発行「広報しわ」(第88号)掲載〉

頼朝軍の陣が岡宿営

平泉の藤原一族が頼朝軍の攻撃を受けて亡んだのは文治五年(一一八九)のことである。
福島県阿津賀志山の一戦に敗れた泰衡(四代目)は平泉の館に火館に火をはなって北へ逃れた。旧九月四日には俊衡もまた比爪館を焼いて奥へ逃れる運命となった。勝に乗じた頼朝軍は、この日宮手の陣が岡に至って宿営した。その総勢は28万4千余騎?といわれ、源氏の白旗は尾花に交じって秋の月に勢をそえたという。これから十一日までの滞陣となるが、六日には河田次郎が主人泰衡の首を持って降った。頼朝はその首を八寸釘で打ちつけて蜂神社々頭にさらしたのである。これは残酷だ。恩賞にあずかろうとして主人を殺した次郎は逆にここで死刑となった。裏切り者の末路はあわれである。これに比べると同じ泰衡の家臣でも由利八郎は立派である。彼は武運つたなく捕虜となったが、これを生捕ったという者が二人あって互いに功を争った。そこで七日には大将梶原景時が八郎を証人として訊問したがその時の景時の態度は極めて不遜であった。八郎はカットした「お前のような無礼者には返事はできない。」といって何を聞かれても返事をしない。これは痛快だ。そこで今度は畠山重忠に取調べさせたが、彼は礼をつくして尋ねたので八郎も気を直して素直に答えた。これを聞いた頼朝は八郎をよんで対談したが、その中で「お前の主人は全く弱い奴だ。」と泰衡をののしった。八郎は憤然として「あなたの父だって平治の乱には一日も支えることができず、最後は家臣のために殺されたではないか。」とやり返した。偉い。これにはさすが頼朝も一言もなかった。こうして十一日には、頼朝は古館の走湯権現にかぶら矢を奉納して厨川へ向ったのである。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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