ふるさと物語 10 新山寺の由来

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語(10)」〈昭和37年12月5日発行「広報しわ」(第89号)掲載〉

新山寺の由来

土舘の新山神社は昔は新山権現といい、斯波氏の頃は新山寺といって郡内有数の寺院であったらしい。一節には藤原秀衡の祈願所であったという伝えもあるけれども別に「新山権現垂跡縁記」によると次のような由来が伝えられている。
文治五年九月、源頼朝が宮手の陣が岡に滞陣中に平沢野で遠矢の競技会が行われたが、その時の優勝者は小山下野判官藤原朝祐という二十才の青年武士であった。朝祐はその賞として稲藤・土舘・平沢に水田数か所を賜った。その後、稲藤兵衛恒親の娘八重梅という女性に想いをかけたが、事情があって夫婦になることができなかった。悲嘆の余り朝祐は京都の黒谷へのぼって源空上人の弟子となり、浄円と号して仏門に入った。多年修行の後紫波へ帰ってみたところ、稲藤一家は強賊東峯太郎のために殺害されていた。これを悲しんだ浄円は、一家の冥福を祈るために千体仏の観世音を作って新山堂を建立し、竜王山妙雲寺という一寺を建ててその開基となった。その後、宮手にも一寺を建てて能化山安徳寺と号し、承元三年に隠居してこの寺へ移ったという。
もとより真偽のほどは明らかでないが伝承として掲げておく。
新山寺が野史の上で初見するのは室町時代の末期であるが、この頃には高水寺・源勝寺・大荘厳寺・本誓寺と共に紫波五大山と称されたものといわれている。後に南部氏によって盛岡へ移されているが、その後身が新山権現であり、現在の新山神社である。明治十七年に本堂再建の時、旧地から観音像が出土したといわれかささぎの古鏡と共に現在の浦田家で保管している。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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