ふるさと物語 12 河村氏/紫波町

ふるさと物語 12 河村氏/紫波町

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語(12)」〈昭和38年3月5日発行「広報しわ」(第92号)掲載〉

河村氏

中世の頃、本町河東の大部分は河村氏の所領であったらしい。
河村氏の発祥地は神奈川県足柄郡の河村である。文治五年に頼朝が平泉を攻めた時、河村秀清は十三才で従軍し、あつかし山の戦いで手柄を立てたが、その軍功によって岩手・紫波・名取・耶麻の諸郡においてそれぞれ数か村ずつを賜ったと伝えられる。その本拠は名取郡の茂庭であったらしく、本町の所領はしばらく代官によって知行されていたが、鎌倉時代の末頃になると秀清の五代の孫である秀興が本町に分家となったようである。本町大巻には、大巻舘(河村舘)と呼ばれる館跡があるが、これは本町に分家した河村氏の代々の居館であったと考えられる。
この頃、本町の河西は斯波氏の所領であったが、南北朝の時代になると、斯波氏は北朝方に味方し、河村氏は南朝方となった。
興国二年(一三四一)四月には、雫石川附近で南朝軍と北朝軍の合戦が行われたが、河村氏は南部・滴石等と共に南朝軍に参加し、北朝軍の稗貫一族をやぶった。勝ちに乗じた河村氏らは、更に南進して宮城県栗原郡三迫の線に進出したがここで北朝軍の反撃をうけて大合戦となる。両軍の激しい攻防戦は翌年の春に及び、更に秋にも大合戦があった。しかし結果は南朝軍の敗戦に終わった。
やがて南朝の勢いがおとろえてくると、河村氏もついには斯波氏にくだってその家臣となった。
大巻河村氏の子孫は、長い間に各地に分家したらしい。大萱生・栃内・江柄・長岡・手代森・大巻・玉山・日戸・下田・渋民・川口・沼宮内等の諸氏は、みなこの一族だと伝えられ、それぞれの土地の地頭として天正の末頃まで続いたが、その後、盛岡南部氏の家臣となったものが多い。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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