ふるさと物語 21 乱獅子荒五郎

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語」【21】〈昭和39年9月5日発行「広報しわ」(第110号)〉

乱獅子荒五郎

今から百三十年程前、八戸藩主のお抱え力士に乱獅子荒五郎という者があった。荒五郎は本町土舘の松森家(当主浦田庄右ェ門)の生まれで本名を甚太郎といった。
天保三年(一八三二)彼が召し抱えられて郷里を出発する時、上平沢の豪商村井権兵衛がお祝いに五升樽を贈ったが、荒五郎はその場で樽のかがみを抜きとって一気にのみほしたという。
彼は力士としてどの地位まで進んだかは明らかでないが、秋田の勧請角力が伊達藩のお抱え力士である大関を負かしたといわれるから、少なくとも幕内上位までは昇ったのであろう。しかし余りにも抜群の強さであったため、力士仲間のうちには彼に反感をもつ者も少くなかった。わけても前記の大関のねたみは格別であったらしい。このため白河(現在の福島県)の勧請角力に出ようとしてこの地に立ち寄った際、かの大関のために毒酒を飲まされて非業の最期をとげたと伝えられる。但しその年代や顛末は明らかでない。
荒五郎に対する郷土の人々の讃仰は非常に大きいものがあったらしい。後になって土舘の新山神社境内にその供養碑が建立されており、土舘字尻掛の力士供養塔にも筆頭に乱獅子荒五郎の名が刻まれているのはその一端を示すものである。
生家の松森家には、荒五郎の遺品として化粧まわし・きせる・下駄などが伝えられてきたが、現在きせるだけが新山神社宝物庫に保管されており他は散逸してしまった。
現在地元には荒五郎の偉大さをめぐって、彼の脚のこぶらにはあばら骨のような骨組みがあったとか、岩手県(南部)から名力士の出ないのは彼のたたりであるとかいわれているが、これは山の上作太夫(滝沢出身)の伝説と混同したことなので注意を要する。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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