ふるさと物語 22 村井権兵衛/紫波町

ふるさと物語 22 村井権兵衛/紫波町

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語」【22】〈昭和39年10月5日発行「広報しわ」(第111号)〉

村井権兵衛

南部氏が盛岡に城下町を建設すると他領の商人が続々と入ってきて領内の商業活動を牛耳るようになるがその中でも目ざましい活躍をしたのが近江(滋賀県)出身の商人であり、その代表者が志和の村井権兵衛とその一族であった。
初代権兵衛は近江国高島郡大溝の出身で本姓は小野であったが、盛岡に下った際、知人の村井新七の家にわらじを脱ぎ志和に独立するまで世話になったので姓を村井とかえ、屋号を近江屋といった。
志和の上平沢へ移った年代は明らかでないが、この地が八戸藩に編入された寛文の頃と推定される。権兵衛はここに新居を設けると良質の水と志和米をもって灘仕込みの清酒を造って売出した。当時この地方はもっぱら濁酒であったからこれは酒造業に対する一つの革命であり、後に優秀な志和杜氏を生む原因となった。その表面上の醸造高は百五十石程度であったが実際にはこれをはるかに上廻るものであったろう。「あねこどこさいく一升樽さげて、志和の権兵衛どに面買いに」と唱われた程で、当時この地方ののんべい族には大きな魅力であったらしい。
この外、滝名川の砂金採取、味噌醤油の製造販売、質屋の営業、塩の一手販売、京都の質流れの古着販売など広範囲の仕事に手をつけて僅々十数年の間に莫大な財産をつくりあげ、一代のうちに盛岡には井筒屋善助、井筒屋清助、芳野屋宇兵衛、日詰には井筒屋権右ェ門、桝屋佐兵衛などを分家させた村井家は大正十三年に至って没落したが、それまでは代々酒屋を経営し、明治三十年頃には最高三千石にまで達した。その銘柄は福鯛と称して有名であった。
村井家の人々は商人として活躍しただけでなく、第八代目の義堂などは志和代官所の助役に起用され、また文人としても地方に名をなす程であった。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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