ふるさと物語 25 金を掘る人々

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語」【25】〈昭和40年2月5日発行「広報しわ」(第115号)〉

金を掘る人々

南部領の中でも本郡は産金のさかんなところであった。わけても丹波弥十郎が開発したといわれる佐比内の朴沢金山は有名で、年間の鉱山税は六万五千両に及んだといわれる。
後の相場で勘定してもざっと十五万石の米に相当する金であり今の米価に直すと十九億円程の税金ということになる。ここで働く人夫の数は一万三千人に及び、二千百二十軒の長屋が軒を並べたが、これをねらって江戸、仙台などから五五〇人の遊女が集まったというから、そのにぎわいぶりが想像されよう。
この外、佐比内には平栗金山・釜ヶ沢金山・僧ヶ沢金山、長岡には舟久保金山、赤沢には繋金山・赤沢金山などがあったし、佐比内川・赤沢川などでは農民が副業として砂金の採集を行っていた。また、西の山王海でも金の採掘がやられたという。この部落では、年貢米の代わりに税を砂金で納めているから、同地の産金は事実であったと思われる。金山沢・黄金沢などの地名が残っていることからもうなずかれよう。
このように、わがふる里は「西も東も金の山」であったが、これは江戸時代から始まったものではなかった。平泉の藤原氏は、その一族樋爪氏を南日詰に分家したが、これは彦部川や滝名川の砂金採集を支配させるためであったにちがいない。同氏が鎌倉軍に攻められた時、砂金を埋めて逃げたという伝えがあるが、これはまんざら根も葉もない話ではなかったろう。今から一八〇年程前、星山生まれの勘太郎という者が、一週間がかりで五郎沼薬師堂の下から金を掘ったという記録がある。どの位の量であったか不明であるが、何れこれは埋蔵金であったことはまちがいない。おそらく砂金であったと思われるが、これを樋爪氏のものとみるのは早計であろうか。
先輩の資源開発に対する意慾は旺盛であった。われわれも新しい資源を求めて先進しなければならない。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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