ふるさと物語 31 かくし念仏紫波派由来/紫波町

ふるさと物語 31 かくし念仏紫波派由来/紫波町

「ふるさと物語」【31】〈昭和40年10月10日発行「広報しわ」(第123号)〉

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

かくし念仏紫波派由来

かくし念仏は江戸時代の中頃から本県に広がった秘密宗教で、当地方には紫波派とよばれる一派が分派して現在に法脈が伝えられている。
紫波派の開祖は木村養庵である。彼は仙台領の出身であったが、医術の修行中に京都の鍵屋守兵衛から、かくし念仏を伝授されたという。この養庵が、享和元年九月十九日、志和稲荷へ参詣しての帰途土舘向町の庵寺(欣求庵)に宿泊して庵主と法談をしたがたまたま通りかかった向町の長兵衛がこれを立聞して余りにもありがたい法話なのに感動し、虚空蔵の佐七と御堂の儀兵衛をさそってわれらにも聞かせてほしいと願い出た。これをいれた養庵は翌晩には御堂川原の木立ちの中に忍び込んで三人に法話を行ったが、三人には更に片寄村の朴田喜八と相談の上、養庵に対して長く当地に留まるよう懇請した。そこで養庵は一家を片寄に移住し、朴田の分家山口の五郎八方に身を寄せて、表面は医者と手習の師範を兼ねながら、ひそかにかくし念仏の布教に当った。
享和三年二月十五日には朴田喜八の土蔵で、全期の三人と朴田の喜八、日当の勘兵衛の六名に対して法儀が直伝され、後に南伝法寺高木の某にも相伝のことがあった。
藩では、このかくし念仏をキリシタンと誤解し、養庵に立ちのきを命じた。彼がこの地を去ったのは文化二年四月であるから、片寄在住は、わすか四年である。しかし養庵の開いた紫波派の門流は、前期の直弟子によって方々に広められさかんになった。順教派(盛岡、花巻派)や小舟渡派三本柳派などはいずれも紫波派の分派で、今にその系統を伝えているが本流の紫波派は別に定まった家元がないようである。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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