ふるさと物語 33 樋爪舘跡の確定まで/紫波町

ふるさと物語 33 樋爪舘跡の確定まで/紫波町

「ふるさと物語」【33】〈昭和41年2月10日発行「広報しわ」(第127号)〉

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

樋爪舘跡の確定まで

樋爪氏の居舘跡は従来二日町の城山だと考えられてきたが、しかしこの説は学術的に認められるものではなかった。これについて長い間黙々と研究を続けてきた一人の郷土史家がいる。日詰の村谷喜一郎氏である。彼は故菅野義之助氏の見解を継いで南日詰の五郎沼附近に着目した。この研究の中で特に注目されるのは古い絵図面を手がかりとして堀の存在を想定した点である。これは卓見である。勿論、町の文化財調査委員会でもこの説を支持するにやぶさかでなかったが、残念ながら学術的に立証する材料がないため確定の域には至らなかった。
三十七年の秋、たまたま五郎沼附近の土地改良事業が始まった。早速筆者は現地をおとずれた。数日−そしてついに掘立柱の穴跡と堀の断面をつきとめたのである。
調査は町教育委員会が主体となり、岩大の板橋教授を中心として昨年十一月十八日から四日間にわたって行われた。場所は赤石小の西側の水田である。発掘の結果、一畝歩位の面積から数十に及ぶ堀形と土器の破片が無数に出土した。堀形はかって堀立式の建物があったことを示すものであるが、これは少なくとも三重の複合遺跡(三回建てた跡)であった。また、土器は古いものは志波城の頃から、新しいものは樋爪氏の頃までのものである。したがって約四百年の間に少なくとも三度建物がたてられたことになるが、その最後が樋爪氏のものであることは確かである。即ち五郎沼説はみごとに立証されたのである。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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