ふるさと物語 36 古舘史話(1)

「ふるさと物語」【36】〈昭和41年5月10日発行「広報しわ」(第130号)〉

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

古舘史話(1)

古舘のシンボルである城山には長い歴史の跡が秘められているがこれを大別すると三期に分けることができる。第一期はエゾの防塞であった時代である。数千年も前、この辺一帯はエゾの根拠地であったが、彼等は外敵への備えとしてこの小丘をとりでとしていた。一般にチヤシと呼ばれるものである。
第二期は高水寺城の時代である七百年も昔のこと、足利氏の一族が本郡に下向しここに居城を築いて一家を立てた。これが斯波氏の発祥であるが、後にその分族は京都・福井・岐阜・宮城・山形などの各地に栄えた。南北朝の頃には、ここは奥州における北朝勢力の中心であった。その城主家長は奥州軍の総大将として鎌倉に出陣し、政府軍と戦って戦死している。同氏はその後も本郡六十六郡の領主として八代にわたって栄えたが、三七五年前の天正十六年、三戸南部氏の攻略を受けて没落した。第三期は郡山城の時代である。本郡を占領した南部氏は、同城を郡山城と改称して城代を置き、本郡一帯と大迫地区の支配に当らせた。その初代が前に述べた中野修理康実である。
ところで南部氏は、多年の野望であった斯波・稗貫・和賀の三郡を占領して北上平野への進出に成功すると、その本城を従来の三戸から南方へ移転する必要が生じた。その第一候補にのぼったのがこの郡山城であったと伝えられるが、これが実現していたら本町は岩手の県都になっていたのであろう。それが奥州平定軍司令官浅野長政の勧告によって盛岡へ変更となったが、その築城工事中、南部氏は郡山城を臨時の居城として住んでいた。その後も引き続き城代が置かれ数人の事務官と三十人の歩卒が配置されたが、三百年程前にはこの制度は廃止となり、同時に城も破却されて盛岡城本丸の用材に当てられた。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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