ふるさと物語 40 彦部史話(1)

「ふるさと物語」【40】〈昭和41年09月10日発行「広報しわ」(第134)〉

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

彦部史話(1)

天正の頃、斯波氏の家臣に彦部氏のあったことが知られるが、その事跡については全く明らかでない。
一説には、建武の頃、機織館に彦部新左衛門尉秀光という者が居住したともいわれるが、これにも疑問がある。彦部秀光の名は太平記にみえているが、本拠は三河国(愛知県)であったらしい。当時、彦部の地は河村氏(南朝方)の勢力下にあったと考えられているから、北朝方の彦部氏がここに孤立していたというのは合点がいかない。後世の物識りが彦部の地名にこじつけたのであろう。
ところで、彦部氏の子孫と称する者が、桐生市広沢町に現住している。同家が京都から現在地へ移ったのは室町時代の末期であるが近世には代々名主を勤めた家柄であり、今でも正面に長屋門を構え周囲に空堀と土累をめぐらして当時の面影を伝えている。その系図によると、本姓は高階(たかしな)であり、光朝の時に「奥州彦部郷」に移って彦部六郎と称したことになっている。同家ではこの彦部郷を本町の彦部と解し、桐生市史もその立場をとっている。
しかし、同家所蔵の「彦部史ゆいしょ書」によると、光朝の本拠は「奥州菊田郡彦部郷」と明記されており、同郷の大高外五か村で二百町歩を給されたといい、大高寺へ仏像を寄付したともいっている。いずれが真であろうか。ここで詳しく考える余裕をもたないが、ゆいしょ書の記述が正しいのであろう。
菊田郡というのは現在の福島県勿来(なこそ)市であり、彦部の郷名は消えてしまったが大高の地名は残っており、大高寺も現存している。
同氏の一族はその後三河国に栄え、京都に出て室町幕府に仕えている。したがって、斯波氏家臣の彦部氏は、桐生彦部氏とは別系であったとみなければならない。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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