ふるさと物語 43 長岡史話(2)

「ふるさと物語」【43】〈昭和41年12月10日発行「広報しわ」(第137)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

長岡史話(2)

藩政時代の長岡は、多くの南部家臣によって支配されていたのが特長です。
末期の頃をみると、南部主水・毛馬内典膳・新渡戸因幡・楢山用蔵・久慈作平・栃内梶右衛門・高橋万左衛門・栃内与兵衛・大槌直治・寄木伊太夫・中市忠左衛門・佐羽内駒太郎・玉山連兵・栃内一五郎・山口権左衛門・切田弥次兵衛門・神進陸・佐藤孫市郎・佐羽内東左衛門・漆戸官右衛門・奥瀬源助・大崎甚右衛門・漆戸玄蕃・漆戸角弥・栃内右多大・楢山蔵之進・大萱生練八・大萱生長左衛門・工藤喜太郎・福士清左衛門など三十人を数えることができます。
これらの武士の多くは、盛岡に居住していたが、中には玉山・神・大崎氏のように郡山在住の地方給人もあり、それぞれ自分の支配地に住む農民の中から肝入を任命し年貢米を取り立てていました。彼らのうちには、適地を見立て新田を開発する者もありました。安政二年(一八五五)には、山口権右衛門が桜田・五ツ森・笹森・休場・日当の五か所に二ヘクタールほどの新田を開いているし、佐藤雄次郎は間淀・南ノ沢・茅花川原などで三ヘクタールの新田を起こしています。
また、嘉永五年(一八五三)には大崎甚右衛門が善前野・桜田長根で開田を行い、堤二か所をつくっています。
この外にも、支配している武士によって開発された新田はかなりあったものと思われます。
この地域の道路は古くから山手を中心に発達してきました。平坦部は北上川の氾濫にはばまれ主幹道路の開通をみなかったのです。
弘化三年(一八四六)、城山の東に承継橋がかけられると、藩ではこれと盛岡を結ぶ道路の開発に乗り出し同年に天王まで、翌年には梁川まで新道が開通しました。
---佐藤 正雄(故人)---

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