ふるさと物語 48 『昔から酒造りの地』志和の歴史(1)

「ふるさと物語」【48】〈昭和42年7月10日発行「広報しわ」(第144)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

※都合により1年余り休刊しており申し訳ありませんでした。今月より再開させていただきますので今後ともご愛読のほどよろしくお願いいたします。

『昔から酒造りの地』志和の歴史(1)

志和地区は、南部杜氏(とじ)の発祥地と考えられていますが、そのくわしい歴史についてはわかっていません。ただ、今まで調べたところによると、次のことだけはいえるようです。
まず、どうしてこの地区に酒造技術が盛んになったかということですが、それは村井権兵衛酒屋の影響によるところが大きかったようです。
この酒屋は、今から290年前に志和の町に開業されたもので、初めは大阪から杜氏を招いて250石位の醸造をやっていました。しかし、その全部を自家で造ったわけでなく、三分の一位は十軒程の農家に分けて委託するという方法をとっていました。これを「引酒屋(ひきざかや)」といいました。木戸の長助や大木の八右衛門などがそれですが、その他はわかっていません。
この引酒屋では、麹(こうじ)の製造も許可されていましたから、米作り、麹造り、酒造りと一貫した農村工業をやっていたことになります。その製品は全部権兵衛酒屋に納めるわけですが、権兵衛酒屋ではその品質を統一するため、杜氏を巡廻させて技術指導をしていたようです。志和地区に、池田流の優れた技術が広まるようになったのはこれが原因と思われます。
それでは、どうして出稼ぎをするようになったのでしょうか。それは「せんばごき」が入ってきたことによって、冬の農作業がなくなったためでした。
今から150年位前のことです。
この頃になると、志和地区から仙台、石巻方面への出かせぎが目立ってきていますが、その大部分は酒屋働きであったようです。
仙台領の酒屋が急にふえているのもこの頃です。
当時、志和の酒造技術は仙台領よりもはるかに優れていました。このため、引酒屋の二三男たちが杜氏として雇われるようになり、それに村の若者たちがついて出稼ぎするようになったのでしょう。
---佐藤 正雄(故人)---

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