ふるさと物語 52 『金子七郎兵衛保憲』江戸時代の人々(3)

「ふるさと物語」【52】〈昭和43年8月10日発行「広報しわ」(第157)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『金子七郎兵衛保憲』江戸時代の人々(3)

保憲(やすのり)は、日詰町美濃(みの)屋の四代目。
同家の初代七郎兵衛は美濃の国(現在の岐阜県)武儀郡関の出身で刀工として有名な関孫六の後裔(えい)といわれます。志和の近江屋権兵衛より少しおくれて南部に下り、日詰町に定住して呉服屋を開業しました。
この美濃屋は保憲の代になって急に大をなしたが、それには南部三十八代の藩主利済(としただ)との関係が大きくあずかっています。利済の父は南部藩主の座につくべき人でしたが、ある事情から廃嫡(はいちゃく)される身となり、これがため子の利済も盛岡願教寺にあずけられて少年時代は不遇のうちに過ごしました。
これを気の毒に思った保憲はひそかに金品を贈って庇護してきたが、その利済が後になってはからずも藩主に迎えられることになったのです。これは、保憲にとっても正に運命の転機でありました。
利済の保憲に対する信任は格別なものがありました。そのため、日詰代官所の役人に登用されたのを初めとして、その後はとんとん拍子に昇進し、ついには商人の身分でありながら、勘定奉行元締役という行財政の最高の役に抜擢されるにいたったのです。
保憲はこの地位を背景として商業の面でも大活躍をとげ、呉服・食料品・雑貨等の販売の外に質屋をも兼業とし、更には鉱山経営や植林事業にも手をのばして、南部領内でも屈指の分限者にのし上がりました。その資産内容をみると、不動産だけでも、80ヘクタール近い土地と90数軒の家屋敷及び数百ヘクタールにおよぶ山林が知られます。
また、藩に対して一万数千両の借出しをしていることでもその一端がうかがわれましょう。
保憲は、凶作の際には多くの金品を放出して窮民を救ったり、自ら多額を投じて城山東方の北上川に承慶橋をかけるなど、社会のためにも大いに力をつくしました。
弘化3年5月1日、69歳で死亡。日詰町来迎寺に葬る。
---佐藤 正雄(故人)---

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