ふるさと物語 55 『熊谷嘉藤治(かとうじ)』江戸時代の人々(6)/紫波町

ふるさと物語 55 『熊谷嘉藤治(かとうじ)』江戸時代の人々(6)/紫波町

「ふるさと物語」【55】〈昭和43年11月10日発行「広報しわ」(第160)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『熊谷 嘉藤治(かとうじ)』江戸時代の人々(6)

八戸藩志和通(旧志和村)は、米産地であると同時に馬の産地でもありました。その振興につくした人に熊谷嘉藤治があります。
嘉藤治は、片寄漆立屋の九代目の人です。同家は八代目長三郎より四代にわたって志和通の馬宿を勤めた家柄であり、嘉藤治も文化二年(1805)から三十二年間その役にありました。
馬宿は、馬政の元締役で、馬に関する一切の仕事を担当しました。
嘉藤治も十数頭の馬を飼育して繁殖と育成に当たりましたが、産馬振興の根本は優秀な種馬にあることに着目し、みずから八戸方面に出かけて父馬の導入に努めました。
母馬の選択にも意をそそぎ飼育していた母馬のうちには、十一頭の子馬を生むほどの優秀なものありました。そのため死後は馬頭観世音の一堂を建て霊をまつっています。
志和通の馬市は、三月から九月までの間、毎月、三日・十三日・二十三日に開かれましたが、ここで買った馬を和賀郡の鬼柳番所から南方へ出すためには、志和代官発行の証明書をもって盛岡へ行き改めて盛岡藩庁から鬼柳番所の通行許可証を発行してもらうという二重の手続きが必要でした。
これは、八戸領の移出馬の中には盛岡領の馬がまぎれこむのを防ぐためにとられた両藩の協定でした。このため、他領の博労たちは自然に志和の馬市を遠ざかるようになったのです。
これを憂いた嘉藤治は、志和代官において直接通行許可証を発行してくれるよう再三にわたって交渉を重ねましたが、盛岡藩との関係があって思うように進展しませんでした。
そこで彼は、直接八戸藩庁へ出頭し、八方手段をつくした結果、ようやく目的を達成することができました。
晩年には、今までの功が認められ、苗字帯刀を許されて一人扶持を支給されました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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