ふるさと物語 56 『芝田甚兵衛(しばたじんべい)』江戸時代の人々(7)

「ふるさと物語」【56】〈昭和43年12月10日発行「広報しわ」(第161)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『芝田 甚兵衛(しばた じんべい)』江戸時代の人々(7)

芝田甚兵衛は、昭和8年、湛水の二男として盛岡に生まれました。名は政義、甚兵衛は通称です。
芝田氏の先祖(別所氏)は、播州(兵庫県)三木城の城主でしたが、毛利氏に滅ぼされてから、その子孫は中国地方に潜居していました。盛岡に移ってきたのは、甚兵衛の曾祖父源左衛門の時です。彼は、大師流の書法をよくしたところから紙町に家塾を開いて門弟の指導にあたりましたが、この家塾はその後、湛水・将矩・将賀と三代に引き継がれて明治の初めに及びました。
甚兵衛は、このような家に生まれた関係上、早くから父の教導をうけて諸般の学芸に長じていました。その彼が、大巻村有志の招聘(しょうへい)に応じて同村に移住し、間野々屋敷の隣(近谷家の北西)に家塾を開いたのは、寛政9年、27歳の時でした。
その教授内容は、読み・書き・算盤(そろばん)を主とし、かたわら謡曲も教えましたが、当時、この地域には本格的な教育施設がなかったところから、その門に来たって教えを乞う者は、地元大巻村を初め近隣7ヵ村に及びました。こうして、郷党子弟の教育にあたること40余年。その間に教えを受けた門弟は数千人に達したといわれます。
天保8年12月14日歿。行年67歳。彦部村正養寺に葬られました。
野村 長徳
野村長徳は大巻村の人。文政元年4月11日、又助の長男として生まれました。通称は長助。
彼は、芝田甚兵衛の門に入って学を修めましたが、その人物と学識は師の深く嘱目するところでした。それ故、甚兵衛は、死に臨んで菅公の聖像と謡曲の書物数巻を贈って後事を託しました。ここにおいて長助は、天保9年から明治5年まで35年にわたって地方子弟の教育にあたったが、その門弟は260余人に及んだといわれます。
明治5年5月、55歳で歿。大巻村高金寺に葬られました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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