ふるさと物語 58 『下河原理兵衛恒徳』江戸時代の人々(9)/紫波町

ふるさと物語 58 『下河原理兵衛恒徳』江戸時代の人々(9)/紫波町

「ふるさと物語」【58】〈昭和44年2月10日発行「広報しわ」(第163)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『下河原理兵衛恒徳』江戸時代の人々(9)

恒徳(つねのり)は、花巻給人(花巻在住の南部家臣)の伊藤氏の人として生まれました。初め鉄之亟といいましたが、後に郡山給人の下河原家へ婿養子にはいって恒徳と改名しました。理兵衛は通称です。
下河原氏の始祖恒忠は、柏山氏に仕えて二百石を給与され、江刺郡の下河原舘に居住していましたが、天正の末に柏山氏が没落したため、主家を離れて南部氏に出仕しました。郡山の下河原氏はその分流で恒忠の三男文次郎恒成に始まります。恒成は、寛文十年(1670)に、北日詰村と稲藤村に与力新田五十石を開発し、これを給与されて郡山給人に取り立てられましたが、それ以来、代々、日詰代官所に勤務してきました。
その十二代目の人となった理兵衛恒徳は、文武両道に通じて有名でした。剣術は、初め五日市彦兵衛重起について無辺流の奥義をきわめ、後には永井金作延重の門下にはいって五音流の奥伝を授けられました。学問の修行歴についてははっきりしませんが、諸学に長じていたらしく、天保のころから万延に至るまで、家塾を開いて郷童の教育に当たりました。
内城 了庵
了庵は、郡山役医(藩で任命した医者)内城の六代目で、通称を東磨といいました。
内城氏の先祖は、初め菊池氏を称しましたが、後に閉伊郡細越村の内城舘に居住して内城を氏としました。郡山内城氏はその分家で玄真をもって始祖とします。玄真の兄は南部氏に仕えて武士となったが、玄真は医術を修業し、日詰町に来往して町医者を開業しました。そして、享保19年(1734)には桜町村に新田四十石を開発し、これを給与され、郡山役医に任用されました。以来、了庵まで六代にわたって役医を勤めてきました。
了庵は、内科の外にオランダ流の外科にも長じて名医の名が高かったといわれます。
また、学識が豊富であったため、医業のかたわら、町内の子弟を集めて学問の指導にも当たりました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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