ふるさと物語 65 赤石神社の祭典/紫波町

ふるさと物語 65 赤石神社の祭典/紫波町

「ふるさと物語」【65】〈昭和44年9月10日発行「広報しわ」(第170)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

赤石神社の祭典

昔は志賀理和気神社(桜町)のことを一般に赤石大明神と呼んでいました。
ここの祭典について古い時代のことははっきりしませんが、江戸時代には、元禄十六年(266年前)に初めて祭礼が行われたと記録されています。
これは、南部藩主三十一代信恩(のぶふさ)が初めて江戸から入国するのをお祝いするために藩の命令によって行われたもので、旧七月十七日から十九日までの三日間にわたって光林寺の和尚を導師として行われました。
その経費として、日詰町と桜町村から奉加銭五貫文が出されていますし、その外厳物笠・幡・宝剣等が奉納されています。当日は、少年少女の手踊りも奉納され、多数の参詣人が集まりました。そのため、代官滝沢三郎右衛門を初め同心十人が出て整理にあたったといわれます。
お神輿さんが通るようになったのは、寛政八年(173年前)からだったようです。今ある古いほうの神輿は、この年の旧七月十七日に日詰町の井筒屋権右衛門ら、講中一同から奉納されたものです。
この神輿は京都で作られたもので、それを分解して運んできたといわれますが、その組立てをめぐって一つのエピソードが伝えられています。組立てには地元の大工数人で当たりましたが、どうしても一ヵ所だけ組立てれないところがありました。そこに、たまたまいあわせたのが大巻村朴木(ほおのき)の重助という大工でした。
彼は相当の腕ききであったらしく、組立てに困っているのをみかねてひとこと助言をしたところ、なんのめんどうもなく簡単にできあがってしまいました。
そこで、お礼に一ぱいということになったわけですが、その時だれかがねたみ心から毒をもったらしく、重助は間もなく苦しみだして七転八倒の末に絶命したといわれています。おそろしいのは女の嫉妬心だけではなかったようです。
寛永四年(118年前)には、七月十七日から一週間にわたって奉斎千年目の開帳が行われています。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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