ふるさと物語 66 年貢を納める人々

「ふるさと物語」【66】〈昭和44年10月10日発行「広報しわ」(第171)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

年貢を納める人々

嘉永七年の検見は、日詰通では十月十三日から始まりました。
検見というのは、その年の作柄をみるために実際に稲を刈り取って収量を調査することで、藩ではこの結果にもとづいて年貢の税率を決定しました。ですから、この検見が終わらないうちは稲刈りができなかったのです。つまり、この時代は、稲刈りの自由さえも認められなかったのです。
この年は、南日詰・犬淵・北日詰・桜町・日詰新田・二日町新田・宮手・升沢・平沢の順で行われましたが、最後の平沢村が終わった時には十月も末になってました。平沢村ではそれから稲刈りを始めたわけですが、その最中に初雪を迎えたため、その後の作業は非常に困難をきわめました。
稲こきに着手したのは十二月の始めでした。このころ、平沢村では村中の寄合いがもたれ、肝入からこの年の年貢米と検見に要した経費の割当てがありました。
六之助は約一町歩を耕作する標準農家でしたが、ことしは青立ちも多かったから、その総収入は十二石がせいぜいだろうと思っていました。これに対して四石二斗九升六合の年貢が割当てになったものですから、六之助の気持ちは急に暗くなってきました。年貢の外にもいろいろの名目で税金をとられるからその分として別に三石はみておかなければなりません。従って、手取り四石七斗ほどとなるわけですが、これで七人家族を養っていくことになると、一人一日あたりの飯米は二合にもならないからです。それに、検見の経費として四百八十文(約米一斗分)の割当てがあったからなおのことゆううつになったのです。年貢を調査するための調査費を、なぜ上納する側で負担しなければならないのかと思ってもみました。
六之助が父から聞いたところによると、万治の昔には、年貢米が余り過ぎて八、九年もの古米ができたため、処分にこまって夜ひそかに北上川に捨てたといわれます。これを思い出して六之助は、何か割切れないものを感じました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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