ふるさと物語 79 『陣が岡物語』昔話と伝説(10)

「ふるさと物語」【79】〈昭和46年2月10日発行「広報しわ」(第187)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『陣が岡物語』 昔話と伝説(10)

むかし、坂上田村麻呂が岩手山の大高丸と悪路王を征伐するためこの地に下向した際、宮手の岡に野営をしました。その時、連日雨が降り続いたため、西山の渓流や山王海の水があふれて大洪水となり、あたり一面が海のようになってしまいました。しかし、この岡だけは水中に没しなかったところから陣が岡と呼ばれるようになったといわれます。
日本武尊が志波の荒山の賊を征伐するために下向された際にも、この岡に野営をされました。その時おとぎの相手をした宮簀姫(みやすひめ)が解任して男の子を生みましたが、不幸にも三日後になくなりましたので、その遺骸を陣が岡の頂上に葬りました。皇子(おおじ)森と呼ばれているのがそれだといわれます。
源頼義が安部貞任を征伐するためにこの岡に陣営をしいた時、戦勝を祈願して大和の国の春日神社の境内にある三月堂の蜂の社をこの地に勧動しました。これが蜂神社の始まりだといわれます。
また、その神社の西方に自ら三日月形の池を築き、これに水をそそいで神明に捧げましたが、それが今に残っている月の輪だということです。
源義家が鎮守府将軍として在任していたころ、この陣が岡に於いて八門遁甲の兵法を実験するために演習を行ったといいます。この兵法は大江匡房から伝授されたもので日本では初の実験であったということです。そして、現在、陣が岡の西側に残っている空堀の跡はその時のものだといわれています。
陣が岡蜂神社の最も隆盛をきわめたのは、藤原秀衡の時であったといわれます。すなわち、東西一里南方一里の地域にわたって一面に野桜が植えられ、神田として水田二十町歩が奉納されました。そして、柴田郡船迫の館主須賀川荘司昌行をもって宮司とし、遠山民部師時に命じて社掌をつかさどらせたといわれます。
(この物語は『陣ヶ岡蜂神社由来記』によったものであり、史実ではないことをあらためてお断りします)
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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