ふるさと物語 89 『修験道の神仏習合性』修験道物語(2)/紫波町

ふるさと物語 89 『修験道の神仏習合性』修験道物語(2)/紫波町

「ふるさと物語」【89】〈昭和46年12月10日発行「広報しわ」(第197)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『修験道の神仏習合性』修験道物語(2)

修験道は、日本固有の山岳信仰に仏教(密教)が結びついて成立したものですから、一般に、神仏の習合性が濃厚でした。その根底には、神と仏を対等にみて、両者を調和させようという思想があったのです。
この思想は、時代によって内容的に若干の違いがありましたが、代表的なのは、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)と呼ばれるものです。これは、インドの仏をもって本地とし、それが日本に仮に現れたのが神であるという説ですが、これによって、神々には必ず本地仏が定められるようになりました。
これを修験道についてみると、神を本体として祭る神社持ち修験の場合は、別に本地仏と本尊として寺号を称するのが普通でありました。たとえば、志和稲荷の別当成就院では、十一面観音を本地仏として玄狐寺と称したし、志和古稲荷の別当慈重院でも、十一面観音を本地仏として松源山元宮寺を称していました。また、遠山青麻社の別当善養院では、日光菩薩・金剛界大日如来・胎蔵界大日如来の三尊を本地仏として白竜山遠山寺を称していました。但し、寺号を称したのは近世初頭までのことであり、それ以後は通用しなくなったもののようです。元和九年に創立された赤沢白山寺の別当慈徳院の場合は、本地仏として十一面観音を祭っていましたが、寺号はなかったようです。この修験道の神仏習号は、仏堂持ち修験の場合も例外ではありませんでした。南日詰の五郎沼観音堂は千手観音を本尊として八葉山広泉寺と称しましたが、別当の観明院は同時に皇太神宮別当でもありました。また、北日詰の大日堂は、大日如来を本尊として阿吽山覚王寺を称しましたが、別当の円学院は桜町岩動権現社の別当を兼ねるというぐあいでした。
このような神仏の習合性によって、修験者は僧侶と神主の二重的な性格をおびることに
なりましたが、彼等は密教呪法に通ずるだけでなく、神道儀礼にも長ずるところから、こ
の両面を自由に駆使し、すぐれた祈祷師・呪者として庶民の崇敬をうけていました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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