ふるさと物語 95 近世職人伝(2)/紫波町

ふるさと物語 95 近世職人伝(2)/紫波町

「ふるさと物語」【95】〈昭和47年6月10日発行「広報しわ」(第203)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

近世職人伝(2)

カジ屋も大工に次いで需要の多い職業でしたが、近世末期での日詰町では、万之助・孫太郎・伊助・万太・与市・市助・伊四郎・久右衛門・直助・安兵衛・亀松・三五郎・鶴松・辰蔵・門之助・久助などの名が知られ、大半が一ヵ所に集中して居住したところからカジ町の名が生じています。ほとんどが農具の製作を主としましたが、中には直助のようにせんべい型専門の職人もありました。前記のうちでは畠山万之助(明治二年歿)の技術は有名であり、彼によって養成された 徒弟も少なくありませんでした。一方、上平沢の川原町では、文政から嘉永のころにかけてカジ職の人として伝助・伊兵衛・福松の名が知られますが、このうち 伝助は、天保二年(1831)にカジ小頭を拝命しています。このころ、日詰町の治兵衛之助という者が、縁故の南片寄村久保屋敷の庄三郎方に寄留してカジ職 を業としていました。同村ではそれを認めて保護を加えていますが、町方の職人が農村に分布していく過程を示すものとして注目されます。
染屋は、 別に紺屋ともいわれました。大衆的な紺染めの注文が多かったためでしょう。その紺屋として古くから営業していたものに北日詰の川染家(中川氏)と片寄村の「紺屋」がありますが、川染家の初代庄右衛門は京都から下ってこの地に定住したといわれ、川染めのかすり名で有名でした。また、末期になると、日詰町では 伊勢屋儀兵衛・茂八・甚兵衛・善五郎・金蔵などがあったし、その外では、下町の紺屋庄四郎・土舘村の市兵衛・片寄村の儀右衛門・佐比内村の松坂与五兵衛などが知られます。その染色技術については明らかでないが、松坂家ではアイの栽培もやっていました。
コビキは、百姓の余業として行なわれたためあまり名が知られていませんが、ただ、特異な例として船久保村惣畑の与助があります。彼も農業のかたわらにコビキを業としていましたが、文化元年 (1804)に京都へ上がり、コビキ職の司家(つかさけ)占部朝臣良連より免許状を授与されています。そして、良の一字を許されて良信と称しました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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