ふるさと物語 102 郡山御蔵の末路/紫波町

「ふるさと物語」【102】〈昭和48年1月10日発行「広報しわ」(第210)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

郡山御蔵の末路

今回は、郡山御蔵の末路について述べてみましょう。郡山御蔵というのは、江戸時代に、南部藩が年貢米を収納するために二日町(城山の北麓)に設けたもので、土蔵五棟と役所座敷、斗小屋の付属建物からなっていました。
この御蔵は、明治二年六月八日に閉鎖されて、代官所と同様に真田藩役人に引き渡されましたが、同年十月十三日になると、新しい盛岡藩によって再開されることになりました。
新盛岡藩では、御蔵の収納事務を管内の豪商に委託して行なわせることになり、同年十一月二十二日には、日詰町の井筒屋権右衛門と機久屋七郎兵衛を会計局御用達に委託して郡山御蔵詰めを命じました。
ついで、十二月十八日には郡山御蔵の呼称を郡山租税所と改めましたが、これにともなって、今まで部令所(代官所の後身)で取扱ってきた金銭租税事務は、すべて御用達の手に移管されることになりました。
ところが、翌三年五月四日になると、租税所の名称は廃されて再び御蔵の名で呼ばれるようになりましたし、翌四年六月六日には前記の御用達が罷免になったかと思うと、八月八日には改めて「郡山御蔵出仕」を命ぜられるなど、めまぐるしい変動がみられました。
また、この発令と同時に、二日町の北田万蔵と小川伊太郎は御蔵番を命ぜられ、同町の北田蔵吉は御蔵小使を命ぜられています。そして、この時から、郡山御蔵の収納と管理のことは、いっさいこれらの人々によって行なわれることになりました。
この御蔵は、明治五年八月三十日をもって閉鎖されましたが、建物だけは明治九年三月までは存続しました。そして同月には、建物・敷地・立木ともに入札をもって民間に払下げられています。落札者は、日詰町の伊惣吉(磯吉)でした。
なお、この倉庫施設は、藩政時代に藩費三分の一、民費三分の二をもって建設されたものでしたから、売却代金のうち三分の二は、備荒貯蓄の資金に充当することを条件として、村高割りをもって関係の村々に還付されています。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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