ふるさと物語 104 大火に苦しむ人々/紫波町

「ふるさと物語」【104】〈昭和48年3月10日発行「広報しわ」(第212)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

大火に苦しむ人々

日詰町・上町・下町・十日市などの市街地は、むかしから大火の多いところでした。日詰町のごときは、安永七年(1778)の大火でほとんど全滅の状態であったし、文政十年(1827)にも約半数が焼失しています。そしてこのことは、明治になっても同様でした。
日詰町の場合は、明治三年正月二十五日に新田町の鍛治屋金蔵から出火して四十八戸を焼失していますし、同五年十一月二十七日の晩には習町の内川伊八から出火して七十余軒の類焼をみています。
上町では、明治二年二月五日に十太の家から出火して五軒が焼け出されました。また、同七年六月十九日の晩には九八方から出火して隣の義八郎が類焼しています。
下町の場合は、明治十六年三月に二十七戸が焼失していますし、同二十一年旧四月二十九日の晩には桶屋喜助から出火して三十一戸が焼失しました。
十日市では、明治二十年旧三月二十八日の晩に酉蔵の家から出火して、蟠竜寺を初め三十三戸を失っています。ほとんど、全滅に近い被害でした。
このように大火の発生をみるにいたったのは、当時の消火方法が貧弱であったからに過ぎません。それでは、このころの消防体制はどのようなものであったのでしょうか。その一端を示すものとして明治九年十二月に、四番扱所の戸長から出された指令があります。それによると、あらかじめ消防要員として日詰町十名、上町十名、下町十三名、十日市二十五名の若者を選出しておき、出火の際には半てん着用の上、まとい・とびくし・かま・はしご・ちょうちんなどを持参して現場に出勤させるというものでした。つまり、破壊消防が主であったわけですが、その効力はおして知るべきでしょう。日詰町では、明治の初期には竜土水(りゅうどすい)の設備があったといわれますが、いつのころかさだかではありません。同町に消防組が結成されて、腕用ポンプの装備をみたのは明治四十二年のことでした。
なお、明治十六年の下町の火災時には、罹災者に対して県から一戸あたり十五円から二十円の見舞い金が下付されています。
---佐藤 正雄(故人)---

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