ふるさと物語 108 阿部権兵衛の覚書/紫波町

「ふるさと物語」【108】〈昭和48年7月10日発行「広報しわ」(第216)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

阿部権兵衛の覚書

(1)二日町新田の阿部権兵衛親子は、天保四年から明治二十一年までの五十六年間、二代にわたって「永代諸用書留帳」なる覚え書きをつづってこられました。
ここでは、その中から明治初年の世相をあらわしているものをとりあげて、現代文で紹介することにしましょう。ただし、既にこの稿で述べたことは、重複をさけて省略することにいたします。
明治元年 十月 秋田藩の代表者に盛岡城が明け渡された。○十一月十三日、盛岡の殿様親子が秋田藩士によって東京に護送されたが、この日は郡山へ泊まった。
明治二年 正月 盛岡の殿様が十三万石で仙台領の白石へ国替えとなり、家臣たちはおいおい白石へ移転した。ところが、六月二十八日になってそれが中止となったため、翌日から盛岡へ帰りはじめた。○五月七日日詰代官所の表門と裏門に封印をして真田藩の役人へ引き渡し、代官は勝源院へ移った。○六月八日日詰御蔵を真田藩へ引き渡して御蔵奉公は盛岡へ引き揚げた。○この年、名前に官職名を用いることが禁止されたので、権兵衛を権平と改めた。(兵衛は宮中を守衛した武官の職名)
明治三年 十月 盛岡高水寺と二日町片山寺の住職であった平水清志が神官となったため、両寺は廃寺となり、片山寺は売り払われた。
明治五年 三月二日 旧日詰代官所の建物が土地とともに払い下げられた。○十月十一日これまで日詰町・二日町・下町の三町でやってきた伝馬の継ぎ立てを今後は日詰町だけでやることになった。
明治六年 旧暦十一月三日が新暦の元旦に当たるので、新暦で年越しをするように布達があった。○二月去年二日町から松前(北海道)へ出かせぎにいった人々が帰ってきたが、十八人のうち六人はもどらなかった。
明治七年 九月二十六日 これより戸別に日の丸の旗を立てるようにと布達があった。
明治八年 二月 日詰扱所の役所が来迎寺から勝源院へ移された。○地租改正のための実測が行なわれた。○この年から人力車が使われるようになった。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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