ふるさと物語 109 阿部権兵衛の覚書(2)/紫波町

「ふるさと物語」【109】〈昭和48年8月10日発行「広報しわ」(第217)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

阿部権兵衛の覚書(2)

明治九年 三月 東京から松前まで電信が設けられることになり、三十間おきに柱を立てて「はりがね」がひかれた。○七月六日 今帝様(天皇のこと)が東京からお下がりになって箱舘(函舘)に行かれる途中、日詰において昼食をおとりになった。この御巡幸のため、国道にざりと砂を幅二間高さ二尺に敷いて普請をした。帰路は東海を船でお帰りになった。○この年は大日照りで、盛岡から間野々村の間と東西の山根でたびたび小雨が降った程度であった。このため苗代にも水が無くなる状態であり、ようやく田植えはしたものの旱害がひどくて大減収となった。ダイズ・アズキ・ソバ・ダイコンなども大不作であった。
明治十年 この年、薩摩ノ国を初め諸国で戦争がおこり、青森ならびに方々の国から大勢の軍隊が出動した。
明治十一年 四月 森岡の元丸の内で「さくらんかい」(博覧会か)という見せ物があった。人間の死形・生牛馬渡り物・鳥類・けだ物・木草類のほか地獄芝居もあって、大勢の見物人が方々から集った。○四月二十六日「天照皇大神宮様」がお下がりになり、日詰町の幾久屋七郎兵衛の方にお宿をとられたので、赤石大明神を初め村々の神様が村の組惣代や若物集をしたがえて出迎えた。そして、二十七日と二十八日にわたって一般の参詣が行なわれ、二十九日に森岡を目ざして出発した。○この年、食糧の調査があった。(これによると阿部さんの場合は次のようになっています。朝食は白米三合・白アワ一合・白麦二合・ダイコンとホシバじる・ダイコンの漬物。昼食は白米三合・白アワ一合・白麦二合・ダイコンとネギじる・ダイコンの漬物。夕飯は白米三合・白アワ一合・白麦二合・ダイコンとホシバじる・ダイコンの漬物。酒は一日一銭平均。さかなは月に三度でカツオ・イワシ・ニシンなど。もちだんごは一ヵ年米一斗五升。ちなみに、阿部さんの家族は七人でした。当時の食糧事情が知られましょう。)○十二月 紫波郡役所が井筒屋(日詰)の店と蔵を借りて開設された。また、二日町・高水寺・中島の戸長として大崎唯作が発令された。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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