ふるさと物語 112 文明開化の足跡(1)/紫波町

「ふるさと物語」【112】〈昭和48年11月10日発行「広報しわ」(第220)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合があります
のでご了承願います。

文明開化の足跡(1)

明治時代は、文明開化のことばで表現されるように、文化の面で大きく発展をとげた時代ですが、今回は郷土のそれについて足跡をたずねてみることにしましょう。
交通機関 この時代新しい交通機関として、最初に登場したのは、人力車でした。これは明治三年に日本人によって発明されたものですが、日詰地方で初めて使用されたのは明治八年のこととされています。
次いで、明治二十三年十一月には、鉄道が盛岡まで開通するようになりました。わが国に初めて鉄道が誕生したのは明治五年のことでしたから、それより十八年おくれて開通をみたことになります。これは、日本鉄道株式会社によって、明治十五年六月に、埼玉県の川口から工事がはじめられ、同二十三年四月には一ノ関まで開通をみていたものです。当時の停車場を岩手県分についてみると、南から花泉-一ノ関-前沢-水沢-黒沢尻-花巻-日詰-盛岡の順となっています。したがって、日詰駅は紫波郡でただ一つの停車場であったわけですが、これが郡の中心である日詰町を離れて現在地に設置されるようになったのは、日詰町の有力者たちが-近くに停車場があるとこじきや前科者が流れてきて困る-と反対したからだといわれています。明治二十四年の利用状況をみますと、乗車客、降車客とも一万九千数百人となっており、一日平均にすると百数人の乗降客があったことになります。
明治三十八年からは、日詰と盛岡の間を客馬車が通るようになりました。最初、日詰町の高橋賢太郎によって開始されましたが、まもなく同町の伊藤茂吉や十日市の西村辰之助も開業するようになったため、台数も増加して、日詰から三台、十日市から一台、計四台となりました。いずれも六人乗りで、盛岡(終点は川原町の土橋)までの所要時間は約三時間、料金は二十五銭(後に四十銭となる)でした。また、明治四十四年になると、日詰町の藤原卯之松も営業するようになり、新たに日詰駅行き二台、上平沢(志和町)行き一台、大迫行き一台、乙部回り盛岡行き二台が運行されるようになりました。
---佐藤 正雄(故人)---

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