ふるさと物語 125 『産業を振興する人々-田口倍次郎-』近代人物脈(10)/紫波町

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「ふるさと物語」【125】〈昭和49年12月10日発行「広報しわ」(第233)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『産業を振興する人々−田口倍次郎−』近代人物脈(10)

山王海部落−といっても、今では人の住まない物語の里と化してしまいましたが、かつて、ここに三十数戸の集落が営まれていたころには、山王海といえば、県下でも屈指の木炭の産地として名をなしていました。その最盛期は、大正年間から終戦直後にかけてのことでありますが、それをもたらした先覚者として忘れてならない人に田口倍次郎があります。
その倍次郎は、明治七年一月三日、上平沢の田口源吉の次男として生まれた人です。初め、内田屋を称して呉服屋を業としていましたが、日露戦争前後のころになると、山王海部落の木炭に注目して、その移出をもこころざすようになりました。
この山王海部落は、すでに藩政時代のころから製炭に従ってきたところであり、しかも原木が豊富なところから、その生産地としてはまこと好条件を備えているところでしたが、おしいことには、まだ白炭の製造技術しか知られておらず、それもカマの製造技術が幼稚であったために、一カマから十俵以上の生産をあげることはほとんど不可能な状態でありました。そこで、倍次郎は、その改善こそが先決であることに着眼し、明治三十九年には、当時その道の大家として知られていた広島県高田郡の楢崎圭三を招いて山王海に製炭伝習所を開設しました。その結果、この地に初めて黒炭の製造技術が導入されただけではなく、一カマの生産量も在来の三倍から五倍までも飛躍的な向上をみるようになりました。
倍次郎は、この新技術を活用して、この地で手広く製炭事業を営みましたが、さらには九戸郡や和賀郡下にまでも事業を拡大し、あるいは岩手木炭株式会社を創立するなどして、製炭業の振興のために大活躍をされました。また、東京方面に木炭を移出して販路の拡大に努めたり、サクサン石灰の製造や鉄道枕木の移出にも当たりました。
昭和九年、六十一歳で没。墓は上平沢八幡公葬地にあります。
なお、山王海の元山祗神社境内には、倍次郎の発起によって建立された楢崎圭三の顕彰碑がのこされています。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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