ふるさと物語 128 『産業を振興する人々-細川久-』近代人物脈(13)

「ふるさと物語」【128】〈昭和50年3月10日発行「広報しわ」(第236)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『産業を振興する人々−細川久−』近代人物脈(13)

細川久(初め富治)もまた、山王海溜池の建設を」志して活躍された方であります。
その彼は、明治十六年九月、土舘の北田家に生まれました。岩手尋常師範学校を卒業後、郡下の各地や東京で教員を勤めておりましたが、大正四年五月には、推されて志和村の六代目村長に就任しました。これよりその席にあること二十三年、この間、三期にわたって県会議員にも選出されました。したがって、政界での活躍が大半を占めるわけですが、ここでは、山王海溜池の建設計画に焦点をしぼって、その活躍のあとをたどってみることにいたしましょう。
藤尾寛雄の悲願であった山王海溜池建設のことが、細川久に引継がれて促進の一歩をふみだしたのは、大正十五年のことでありました。すなわち、この年、彼は、国営による溜池工事の促進に着目し、県知事に対してその実現方を強力に陳情しました。これに動かされて、同年の夏には、農林省と県の手によって予定地の実地調査が行われるはこびとなりました。そして、その結果、溜池の建設地としては好条件にあるが、ただ、志和村一ヵ村だけの補水区域では、国営事業としては余りにも規模が小さ過ぎるという結論になったのです。そこで、彼は、水分・赤石・好地・八幡・宮野目・湯本のそれぞれの村に呼びかけて、山王海溜池を水源とする耕地整理事業の施行に同調を求めましたが、赤石村が賛成しただけで、その他は態度を明確にいたしませんでした。
このため、やむを得ず、昭和二年には、志和・赤石の両村協議会を開き、とりあえず二ヵ村だけで国営事業の陳情を進めることになりました。そして、さっそく両村の代表が農林省に陳述したところ、同省の一部には好意の色もみられましたが、実際に予算を獲得するまでには、なお多くの政治工作が必要であることがわかりました。
そこで、彼は、今後の政治工作を有利に展開するために県会への進出を決意し、同年九月の選挙には、時の与党である政友会から立候補してみごと当選しました。そして、中央の田子一民代議士と結びつくことになるのです。(続)
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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