ふるさと物語 134 『産業を振興する人々-橋本善太-』近代人物脈(19)/紫波町

「ふるさと物語」【134】〈昭和50年9月10日発行「広報しわ」(第242)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『産業を振興する人々-橋本善太-』近代人物脈(19)

橋本善太は、日詰町会議員(四期)・日詰町助役(四年)・岩手県会議員(二期)など政界人として活躍する一面もありましたが、しかし、なんといっても、この人の真価は、蚕種業界と種鶏業界の中において評価されるべきものでありましょう。分けても、カイコとニワトリの品種改良に残された業績は、きわめて大きいものがありました。
その善太(初め米造)は、明治二十五年六月、先代善太の長男として日詰町に生まれました。初め盛岡中学校に入学しましたが、父が重病となったために二年で退学し、その回復とともに改めて盛岡農学校農科に入学しました。
彼の生家は、屋号を吉田屋と称して代々コウジの製造を業としていましたが、先代善太の明治二十年代にいたって蚕種製造業に転じました。そのため、善太も、農学校を卒業すると間もなく、家業に従ってその道に身を投ずることになったのです。
ところで、彼が蚕種業界に入ったころの大正年代は、わが国における養蚕の最盛期でありました。そのため、蚕種の需要も多く、業界は活況を呈しましたが、そのなかで、彼は、一つの矛盾を感じるようになりました。当時の蚕種改良は、純粋繁殖の理論を至上として推進されてきていました。その結果、生糸歩合は著しく向上して生糸業者には有利となりましたが、この反面、カイコは次第に弱体化して養蚕家は不利に追いやられる傾向にあったのです。この矛盾に反発を感じた彼は、雑種強勢の理論を導入してこれに対抗することを考えました。そして、いろいろと苦心を重ねた結果、ついに、強健でしかも生糸歩合の高い一代雑種を作出することに成功したのです。大正末期のことでした。この一代雑種は、橋本家に大安がおとずれるように、という願いから「大安橋」と命名されましたが、その優秀さはたちまち全国同業者の注目するところとなって、各地から注文が殺到するようになりました。後年になると、わが国の蚕種は法によって一代雑種に統制されるようになるのですが、彼のこの業績は、その先駆として高く評価されるべきものでしょう。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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