ふるさと物語 82 『田屋』屋号や地名の話(1)

「ふるさと物語」【82】〈昭和46年5月10日発行「広報しわ」(第190)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『田屋』 屋号や地名の話(1)

紫波町内には、田屋と呼ばれる屋号や地名が方々にありますが、これにはおよそ三つの場合があるようです。
第一は、遠隔地の新田内に建てられた別宅をいう場合です。というのは、近い場所に新田を開発した場合には毎日通って耕作することが容易ですが、遠隔地ではそれが不便となるため、勢いそこに仮屋を建てて臨時に住み込む必要が生じてくるわけです。そのために建てられた農舎兼住宅ともいうべき建物をさして田屋と称する場合があります。
そしてそれが山畑に建てられ場合には「山屋」となるわけです。発生的には最も古い型とみるべきでしょう。
第二は、近世武士の知行地内に建てられた別宅(役屋)をいう場合です。中世の地頭たちは、それぞれ所領内に館を構えて居住しておりましたが、近世になると、これらの在郷武士たちは盛岡城下へ移住を強制させられたため、知行地を離れなければならなくなってしまいました。そこで、知行地支配の必要から同地内に役屋的な別宅を建て、そこに自ら出張したり家来を派遣するなどして、支配業務を行うようになったのです。紫波町内の田屋の多くはこれに当たると思われますが、その代表的なのが栃内の田屋があったところですが、かつての栃内館がそのまま転用されたものらしく、三方を掘でめぐらし、一方は北上川にのぞむという構えがうかがわれます。ところで、後になると、知行地支配の末端事務は、給地百姓の中から選任した給地肝入にゆだねるようになりました。そのため、この種の田屋は廃されるようになったのですが、ところによっては、前に準じて給地肝入の私宅を田屋と呼んだところもあるようです。
第三は、村役人の会所をいう場合です。紫波町内では、上平沢の田屋が唯一のそれです。これは志和代官所に付属したもので、志和七ヵ村の村役人が出勤して事務をとったり、会議をしたりする場合に使用されました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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