ふるさと物語 94 近世職人伝(1)

「ふるさと物語」【94】〈昭和47年5月10日発行「広報しわ」(第202)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

近世職人伝(1)

江戸時代における職人のうちで最も需要が多いのは大工であったが、その棟梁(とうりょう)として活躍した人に宮手村の須川助右衛門と日詰町の滝沢忠兵衛熹里・滝沢又五郎種富親子が知られています。共にすぐれた技術の持ち主であったらしく、助右衛門は宝暦十一年(1761)に志和稲荷社の社殿を建築しているし、忠兵衛も文政九年(1826)に同社殿建造に当たっています。そして又五郎も、天保二年(1831)には上平沢村八幡社の社堂を建造し、嘉永二年(1849)には志和稲荷社の社殿建築を担当しています。助右衛門以前の志和稲荷社の社堂建築は、もっぱら盛岡大工によってなされていますから、このことからみても、これら棟梁の優秀さがうかがわれましょう。この外では、日詰町の堀田清右衛門正勝・稲藤村久田の巳之松・上平沢村の小田中善右衛門なども大工の棟梁として名が知られていました。
また、大巻村朴木(ほおのき)の重助も、大工としての技能はかなりのものがあったらしく、彼をめぐって次のようなことが伝えられています。寛政八年(1796)に、赤石神社では日詰の井筒屋権右衛門から神輿(みこし)を奉納されました。そこで、地元の大工数人が組立てに当たりましたが、どうしても一ヵ所だけ組立てできないで困っていました。たまたまそこにきあわせた重助は、それをみて同業のよしみから助言を与えましたが、それが適中してみごとに組立てを終えることができました。そこで一ぱいということになりましたが、その席で地元大工たちが重助の技量をねたんで酒に毒をもったところから、重助は七転八倒して苦しみ、ついに死亡するに至ったといわれます。
当地方の大工の技術系統については明確ではありませんが、盛岡大工の流れをくむもののあったことだけは、ほぼまちがいがありません。享保五年(1720)の志和稲荷社社殿の改築に当たって、二日町の甚三郎・同半之尉・長岡村の清四郎の三人が、盛岡大工の棟梁美松儀兵衛宗徳の配下として工事に従事しているのがその一端を物語っています。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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