ふるさと物語 96 近世職人伝(3)

「ふるさと物語」【96】〈昭和47年7月10日発行「広報しわ」(第204)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

近世職人伝(3)

銅屋を開業した人に、上平沢村川原町の万次郎と米吉の二人が知られます。万次郎が銅屋の営業を認可されたのは弘化三年(1846)のことでした。最初、江刺郡羽田村田茂山の水田秀吉春信方から職人を招いて技術の伝授を受けました。しかし、万次郎は、四年後の嘉永三年に死亡していますから、実際に営業が軌道 に乗ったのは、その子和助(後に万次郎を襲名)の時からであったと思われます。なべ・かまの外に火ばち・半鐘・わにぐち・銅こうなどを造ったといい、銅は 小坂産のもの、鉄は久慈産の砂鉄と地元の古地金を原料にしたといわれています。また、万次郎より六年おくれて、嘉永五年には同町の米吉も銅屋の鑑札を受けていますが、具体的なことは一切わかっていません。
末期になると、紙すきの営業もみられるようになりました。升沢村の栄吉がその例です。彼は、 和賀郡安俵村の出身でした。この地は成島紙の本場として、古くから紙すき業の発達してきたところです。栄吉はここで製法を習得しましたが、後に漂泊して升沢村に来たり、万十郎家の養子となって万延元年(1860)に別家を創立しました。彼が紙すきを余業としたのはこの時からです。しょうじ紙の製造が主でした。その後、上平沢村前田の十助も、栄吉の伝授を受けて紙すきを初めるようになりました。
仏師としては、上平沢村田原町の葛岡弥助(文政元年生まれ)が知られます。弥助は、南片寄村漆立の嘉藤治の次男で幼名を音次郎といい、葛岡家の養子となって四代目を継ぎました。仏像・神像・仏壇・みこしなどの製作を業としましたが、その技術は京都で習得したものだといわれます。子の恒五郎も父業を継ぎ、八幡・新山・水分三社のみこしをはじめ、各地に作品を残 しています。
上土舘村には、由松という曲師(まげし)が寄留していました。曲師というのは、ヒノキの薄板をまげて膳類・桶類・飯びつ・ちょうずばち・ひしゃくなどを作る細工師です。由松は、岩手郡橋場村の産でしたが、文政八年の大凶作で食に窮し、妻子四人と共に流れて上土舘村鳥幅の藤助方に寄留するようになったものです。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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