ふるさと物語 100 紫波郡と改正

「ふるさと物語」【100】〈昭和47年11月10日発行「広報しわ」(第208)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

紫波郡と改正

江戸時代においては、本郡を表示するのにもっぱら「志和」の文字が用いられてきました。これについては、次のようないきさつがあったといわれます。
天保六年(1835)六月のことです。盛岡藩の江戸役人が幕府から呼び出しを受けて、「元禄元年に書上げた高辻帳には紫波郡と書いてあるのに、今度書上げたものには志波郡と記してあるのはどうしてか」と質問を受けました。しかし、江戸役人は、そのへんの事情がはっきりしないので、盛岡の本庁に問い合わせた上で正式に回答することにし、とりあえず「志和」の文字を「紫波」と訂正してもらいました。ところが、その後になって盛岡から届いた返事によると、元禄年中の紫波は全くの誤記で本当は志和の字が正しい、ということだったのです。このため、江戸役人は、大いにあわてながらも、勘定奉行に懇願して内々のうちに紫波を志和と訂正してもらいました。
これ以来、藩では、公式文書にはすべて志和の文字を用いてきました。ところが、明治維新前後になると、一般に紫波の文字を用いる傾向が強くなってきました。そこで、明治三年五月十七日、盛岡県では、民事局の名をもって「従来志和郡と認メ来候処、自今紫波郡と認メ可申事」と通達しています。つまり、今まで志和郡と書いてきたがこれからは紫波郡と書くように、というのです。また、同日付けをもって、寺社署からは、「志和稲荷社」の表示も以後は「紫波稲荷社」と改めるように通達されています。
「しは」の地名が文献の上で初見されるのは、『続日本記』の宝亀七年(776)五月の条に「志波村」とあるのがそれですが、それ以来、志波・子波・斯波・斯和・此波・志和・紫波などの文字が当てられて今日に至っています。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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