ふるさと物語 124 『産業を振興する人々-雷久保ラク-』近代人物脈(9)

「ふるさと物語」【124】〈昭和49年11月10日発行「広報しわ」(第232)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『産業を振興する人々−雷久保ラク−』近代人物脈(9)

雷久保ラクは、この地方にまだ新しい養蚕技術が普及をみなかった明治の初期に、いちはやくそれを導入して養蚕業の振興につくされた先覚者であります。
そのラクは、安政二年(1855)に日詰町の大栄沢屋佐兵衛の長女として生まれ、後に同町の雷久保家にとついだ人ですが、彼女が本格的にその道にはいったのは、二十一歳の明治八年に宮城県石巻町の私立養蚕所に入所した時からでありました。しかし、それを決意した動機は、一つには女といえども安閑としている時勢ではないと思ったこと、一つには女子のの労にたえるしごとは蚕業以外にはないと考えたこと、の二点にあったといわれます。
当時、この養蚕のことは、米作につぐ重要産業として新政府も県も振興に力を入れていましたが、本県の場合は、カイコの飼育技術はもとよりのこと、クワの栽培や蚕種の点でまだ立ちおくれの状態にありました。それが、県の指導によってようやく軌道に乗り出したのは明治十三年ごろとされていますから、それに先立って、しかもうら若い女性の身でそれを志したということは、まさに驚異というべきでありましょう。
ラクは、この養蚕所において三年間修行して帰郷しましたが、さらにその後も、自費をもって福島・茨城・群馬・長野の各県や東京に出かけ、その道の大家を歴訪して新しい知識と技術の修得に努めました。しかも、その回数は数十回にも及んだといわれています。
こうして、カイコの飼育技術はもとより、クワの栽培技術や蚕種の改良方法にいたるまで幅広く研究を重ねた彼女は、自ら蚕種を製造して改良品種の普及に努めるとともに地方の養蚕家を訪問して実施指導にも当たりましたし、時には町村を巡回して講演をするなど、その道の発展に寄与するところがひじょうに大でありました。明治四十年には、その実績が認められて、大日本農会総裁から名誉状を授与されえています。
大正十三年十一月、病のため七十歳で没しました。墓は日詰来迎寺にあります。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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