ふるさと物語 127 『産業を振興する人々-藤尾寛雄-』近代人物脈(12)

「ふるさと物語」【127】〈昭和50年2月10日発行「広報しわ」(第235)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『産業を振興する人々−藤尾寛雄−』近代人物脈(12)

藤尾寛雄(初め八十吉)は、山王海ダムの建設に着目した最初の人として、忘れてはならない先覚の1人であります。
その波は、文久三年十二月、片寄村の中島家に生まれました。初め、教員を志して盛岡師範学校に学び、修了と同時に母校の片寄小学校に奉職しましたが、後に、求められて志和村助役に就任し、さらに、明治三十七年六月には、村民の与望をになって志和村第五代目の村長に就任しました。
当時の志和村は、明治三十三年の干害と同三十五年の凶作によって、極度に疲弊しておりましたが、それに追い撃ちをかけるように、同三十八年には、近代まれにみる大凶作に襲われたものですから、農民たちは、もはや来年の種もみにもことかくほどの窮乏に追いこまれるありさまでした。
したがって、村長としての彼に課せられた使命は、いかにして経済の復興をはかるかにあったことはいうまでもありませんが、そのためには、なにをおいても、用水不足の解決こそが先決でありました。古来、この地域は、農業用水不足に悩まされてきたところであり、そのため、しばしば大規模な水げんかが発生するという歴史をもっていたからであります。
そこで、その解決策として、彼の脳裏にうかんできたのは、山王海に溜池をつくるという遠大な構想でありました。しかし、資金調達のことになると、なかなか容易なことではありませんでした。彼は、その一策として、年次計画による積立てを策しましたが、貧弱な経済力では、これも思うにまかせなかったのです。また、それに加えて、天は彼に実現の時をかしてはくれませんでした。十余年にわたる激務と心労にさいなまれて、大正4年にはその職を退き、次いで同六年六月には湖水の夢もむなしくこの世を去ったのです。
結局、この構想は、資金調達にはばまれて彼の生存中には実現をみないでしまいましたが、その遺志は、次に述べる細川久と北条韶美に引継がれて、ついに実を結ぶにいたったことを思うと、その着想は高く評価されてしかるべきものでありましょう。
墓は石鳥谷大興寺にあります。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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