ふるさと物語 162 『文化を振興する人々-野村長一(続き)ー』 近代人物脈 (41)

「ふるさと物語」【162】〈昭和53年1月10日発行「広報しわ」(第270)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-野村長一(続き)ー』 近代人物脈 (41)

大正三、四年ごろ、長一は、政治記者からいきなり社会部に回されて、事実上の社会部長になりました。当時の部員には、後に日本社会党の委員長をやられた鈴木茂三郎もおりました。
次いで、文芸部長(学芸部長)に転じ、それから編集局相談役となりましたが、この相談役には定まったしごとがなかったものですから、暇で暇でしょうがありませんでした。そこで最初の二、三年間は、新聞の短評を書いたり、川柳の選をしたり、週間雑誌の編集をしたりなどしていましたが、あまり熱がはいりませんでした。
そうしている間に、ある日のこと、編集長の高田知一郎に呼び出されて、「君はなんにもせずにいるとはもったいないじゃないか。社主の三木さんも小言をいうから、なんか書いてみたらどうだ」と相談をもちかけられました。そこで、いろいろと話合った結果、新聞の二段をもらって書き始めたのが、おそろしく奇抜な物語の「奇談クラブ」でした。彼が四十二歳の時であったといわれますから、関東大震災のあった大正十二年かその翌年のこととなりましょう。あるいは、これが小説家「野村胡堂」の第一歩であったのかも知れませんが、一説では、大正九年の空想科学小説「二万年前」が処女作であったともいわれますので、そのへんのことは定かでありません。いずれ、この「奇談クラブ」がきっかけとなって、二ヶ月後には講談社から原稿の依頼があり、さらに翌月には博文社からも頼まれるという状態でした。そこで、編集長に相談したところ、「少しは他の雑誌へも書いて有名になっておくがよかろう」ということでした。そのようなわけで、これからは、新聞記者と文士の二足のわらじをはきながら、公然と原稿料を得ることになったのです。
さて、昭和六年のある日のことでした。文芸春秋社の菅忠雄がたずねてきて、「今度、オール読物という月刊雑誌を出すことになったが、その初号から捕物帖を書いてくれないか」ということでした。そのころ、胡堂は、新しい型の探偵小説を書いてみようと思っていたやさきでしたから、この求めを即座に引受けました。ここに、銭形平次の誕生となるのです。

---佐藤 正雄(故人)---

 

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