ふるさと物語 164 『文化を振興する人々-巽聖歌ー』 近代人物脈 (43)

「ふるさと物語」【164】〈昭和53年3月10日発行「広報しわ」(第272)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-巽聖歌ー』 近代人物脈 (43)

巽聖歌(本名、野村七蔵、日詰出身)は、大正末期より昭和期に至る日本児童文学の形成発展の歴史の中で、常に中心的位置にあって、めざましい貢献をした児童文学者です。
文学史に残る業績の中心は、もちろん詩人として、童謡の新風を確立し、口語による少年詩の創始者としてですが、一方、北原白秋系の歌人としての業績もあります。
そのほかの顕著な業績として、小中学校児童生徒の作文教育の上に果した仕事や、新美南吉などの後進を育成したことなどがあります。
この稿では、日詰時代からのその人生の軌跡を追ってみることにします。
聖歌、野村七蔵は、明治三十八年(一九〇五年)二月に日詰町字日詰新田乙四番地に、父市兵衛、母トメの四男として生まれましたが、鍛治屋をしていた父は、生後八ヵ月で、五十二才で亡くなり、長兄を父親がわりにして育ちました。きょうだいは七人で、七番目の七歳でした。
幼童期の暗算坊
七蔵少年は日詰小学校に入り、卒業しています。家が貧しかったために、子守りや鍛冶屋の手伝いなどが忙しく、ろくすっぽ学校にも行けなかったといいますが、りはつで、土間に字を書いて習ったといいますし、暗算はたいへん早く、二人が同時に出す問題に答える力をもっていたので暗算坊と呼ばれていました。
当時、日詰キリスト教の教会があって、姉と共にそこに出入りするようになったのが、後に牧師さんの世話で九州に出奔するきっかけとなり、あるいは筆名を聖歌と名のるようになるかも知れません。
大正十年には平野直と知り合いになって、ガリ版雑誌「豚のいびき」を出すようになりました。今の花巻矢沢在住の平野直氏は、日詰にやってきては、七蔵少年がたくさんの本を読んでいるのに、びっくりしたそうです。夜になれば家の者にかくれて、みかん箱の中に灯をともして、読書や、執筆に専念したといいます。おそくまであかりをつけていると、叱られるからです。 (続く)

---藤井 逸郎(故人)---

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