ふるさと物語 167 『文化を振興する人々-菊池寿人ー』 近代人物脈 (46)

「ふるさと物語」【167】〈昭和53年6月10日発行「広報しわ」(第275)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-菊池寿人ー』 近代人物脈 (46)

今の福田首相が旧制第一高等学校(東京大学教養学部の前身)に学んでいたころ、同校の校長を菊池寿人といいましたが、この人が本町二日町の出身であることはあまり知られていないようです。

生家の菊池家は、九州の豪族菊池氏の分流とされています。二日町に来住したのは江戸時代の前半のことで、代々医者を家業としてきましたが、寿人は、その菊池家の延人の長男として元治元年(一八六四)に生まれました。
幼少のころから神童の名声が高く、日詰小学校在学中は、県下の優等生二十名の中に数えられるほどでした。すなわち、明治九年七月に、明治天皇が本県に御臨幸なされた際、県では宮内郷の依頼に応じて県下の小学校児童のうちから二十名の優等生を選んで名簿を作成することになりましたが、寿人は、紫波郡ではただ一人その中に選ばれています。そして、その名簿は天覧の栄に浴しました。
このような秀才でしたから、学問に対する探究心も人並みではありませんでした。そのため、進学を志ざして上京しようとしましたが、生まれつき体が弱かったところから、父がなかなか許してくれませんでした。そこで、一時、盛岡の儒者猪川静雄の塾にはいって漢字を学びました。十七歳の夏にはようやく上京のことが許されましたが、あいにく病気にあって延期せざるをえませんでした。そのような時、たまたま、明治十五年三月には、二日町新田の最初の小学校として木宮神社境内に「養成学校」が開設されることになりましたが、適当な教師が得られなかったところから、予定している人が師範学校を卒業するまでという約束で、寿人が同校の授業生(助手)に雇われました。実質的には初代の校長兼教師ということになりましょう。十九歳の春のことでした。(別に十七歳説があるが、これは誇りであろう)
しかし、上京の念が強かったので、同年七月には授業生を辞してその準備にとりかかりました。ところが、当時、東京ではコレラが流行していたため、両親も心配するところから、いったん小樽のおじ(晩節)のもとに寄留した上、秋冷をまって東京へ回航することになりました。(続く)

---佐藤 正雄(故人)---

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