ふるさと物語 172 『文化を振興する人々-須川長之助ー』 近代人物脈 (51)

「ふるさと物語」【172】〈昭和53年11月10日発行「広報しわ」(第280)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-須川長之助ー』 近代人物脈 (51)

須川長之助という人物は、いったい何者であろうか-明治二十年代のころ、わが国の植物学者の間では、このような疑問が話題となっていました。というのは、当時の外国の植物文献、ことにもロシア(現在のソビエト)のそれには日本の植物採集の大家として須川長之助の名が出てくるのですが、きたいなことに、本家本元のわが国においては、長之助のことをわかっている植物学者はひとりもおらなかったからなのです。しかし、これも、時がたつにしたがって次第に明らかになってきました。すなわち、彼こそは、ロシアの植物学者マキシモービチの片腕となってわが国の植物採集に大きな足跡を残した人物であることがわかってきたのです。
その須川長之助は、天保十三年二月六日、紫波郡下松本村の薬師堂家の長男として生まれました。十九歳の時、職を求めてはるばる箱館(函館)に渡りましたが、これがマキシモービチとの出会いを迎える運命の機会となりました。すなわち、初めは、大工見習・下男・馬丁など転々としごとを替えていましたが、翌年に至ってマキシモービチのふろ番兼掃じ夫として雇われることになったのです。
ここで、マキシモービチについて簡単にふれておきましょう。彼は、モスクワの近くのツーラという小さな町で生まれたきっすいのロシア人で、長之助よりは十五歳年上でした。当時、すでに植物分類学者、植物地理学者、また学術探検家としてロシア中に名声を博しており、わけても黒竜江地方の植物研究では第一人者として知られていました。そのマキシモービチが遠く日本の植物調査をめざして箱館に上陸したのは、くしくも長之助がこの地に渡ったのと同じ万延元年のことでした。

マキシモービチの宿舎はロシア領事館内にありましたが、ここで働く長之助の態度は実直そのものでした。たとえば、マキシモービチが長之助をためすために時々居間の床の上に銀貨を落しておきましたが、長之助の掃じが終わった後でみると、いつでも拾い上げて机の上に置かれてあったといわれます。そのようなことから、絶対の信用を得るようになりました。

---佐藤 正雄(故人)---

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