ふるさと物語 174 『文化を振興する人々-須川長之助(続)ー』 近代人物脈 (53)

「ふるさと物語」【174】〈昭和54年1月10日発行「広報しわ」(第282)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-須川長之助(続)ー』 近代人物脈 (53)

長之助の採集行には、いろいろの苦心談がのこされています。ここでは、その一端についてふれることにしましょう。長之助が採集に出かける際のいでたちは、はさみ板・手ばさみ・矢立て・採集こて(根堀り)・なた・望遠鏡・カバン・脇差しなどを身につけてふろしき包みやこも包みを背負うというぐあいでしたが、この異様なかっこうで山野をうろつきながら草木をむしり採って歩く姿は、人々から奇異の目で見られがちでした。そのため、信州(長野県)の木曽では御料林荒しとまちがわれて二十五、六日間も拘留される始末でしたし、箱根では、関所破りと疑われて役人の取調べを受けたこともありました。また、富山県の立山では、はげしい風雨にさらされて、遭難寸前のところまで追いやられましたが、捨ててあったわらじを石でたたいて湿気をとり、いろいろと苦心した結果、それを火だねにようやく暖をとることができたので、かろうじて凍死をまぬがれたといわれます。
明治二十四年二月、マキシモービチは、かりそめの病がもとで突然なくなられました。その悲報に接した長之助は、これよりぴったりと採集をやめて農業に専念するようになりました。
長之助の採集した植物のなかには、まだ学界に知られていないものが少なくありませんでした。それらは、採集者である長之助(チョウノスキー)の名前をつけて世界共通の学名としてのこされていますが、それがなんと十二種類にもおよんでいます。そして、その大部分はマキシモービチの命名によるものでした。これによっても、長之助の植物学界にのこした業績のほどが知られましょう。
この功績をたたえるため、地元では、大正十四年に、上平沢の医師岩泉周甫が中心となて、志和稲荷神社前に「須川長之助翁寿碑」の記念碑を建立しています。しかし、惜しいことには、その除幕をみないまま、同年二月十四日、にわかに昇天されました。時に八十四歳。下松本の共同墓地に葬られました。
昨年六月、紫波町では、さきに述べた橋本善太・巽聖歌と共に名誉町民に推挙しています。

---佐藤 正雄(故人)---

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