ふるさと物語 181 『医業にたずさわる人々(4)』 近代人物脈 (60)

「ふるさと物語」【181】〈昭和54年8月10日発行「広報しわ」(第289)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『医業にたずさわる人々(4)』 近代人物脈 (60)

土館村の細川玄達(安政十一年生まれ)は、玄貞の養子で旧名を小野寺寛蔵といいました。花巻の出身です。明治四年には、盛岡県学校(作人舘の後身)から内科と外科の療治免許状が交付されています。また、同八年には、盛岡の手塚重晴について種痘術を修得し、岩手県から種痘開業医の免許状を受けています。明治二十八年没。
宮手村の遠藤定嵩(弘化二年生まれ)は、盛岡の出身ですが、明治十三年に同村に来住して医師を開業しました。明治四十四年没。
佐比内の石杜右京(安政二年生まれ)は、宗仙の養子で旧名を亀山勵浄といいました。稗貫郡亀ヶ森村浄円寺の出身です。秋田戦争に従軍したといわれています。大正二年没。
赤沢村の佐々木嘉左衛門と工藤伊三郎(天保六年生まれ)については、明治十三年に両人が発行した診断書が残っているだけで、それ以外のことは明らかでありません。工藤伊三郎は明治三十五年に没しています。
西長岡村の吉田古准(嘉永元年生まれ)は、玄仙の長男です。明治六年には、玄仙と共に長岡小学校の最初の教師に任用されています。明治四十三年没。
彦部村の木村宗益は、同村の定内で開業していましたが、それに至るまでの経緯は明らかでありません。明治二十二年には、彦部村の村会議員に選任されて一期つとめていますが、同二十九年ごろには、下閉伊郡の小国村に転住されました。その子孫は、現在北上市口内町に住んでおられます。
なお、藩政時代から医業に従事していた人として、さきに述べた以外に星山村の阿部養庵(本名は源十郎、享和元年生まれ)を追加しておきます。養庵は天保三年(一八三二年)正月から同五年十二月まで日詰新田の木村昌甫について漢方医学と西洋医学の内科を修業しています。そして、天保六年正月から星山村で開業しました。明治九年没。
以上述べた人々の医術は、漢方医学を主体としてそれに西洋医学を加味するという内容のものがほとんどでしたが、明治十六年の医師免許規則の制定に伴って、純然たる漢方医は表だって医療ができなくなりました。

---佐藤 正雄(故人)---

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