ふるさと物語 185 『教育をする人々(2)』 近代人物脈 (64)

「ふるさと物語」【185】〈昭和54年12月10日発行「広報しわ」(第293)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『教育をする人々(2)』 近代人物脈 (64)

大崎栄広(文久三~大正十一)は、盛岡の和歌浦家から日詰の大崎家に養子にはいった人。明治十七年八月に岩手師範学校中等師範科を卒業してから、二日町新田の養成小学校(木宮神社境内にあった)を振り出しに間野々・田頭(岩手郡)の各小学校を経て明治二十九年より古館小学校勤務(訓導)となりましたが、同三十三年九月には同校の初代校長に任命されて翌年三月まで在任しました。その後、明治三十七年から翌三十八年まで南日詰小学校(赤石小の前身)の校長を勤めましたが、その前後については定かでありません。
田畑勇太郎(文久三~昭和四)は星山の人。明治十五年二月に南岩手郡志家小学校(現在の盛岡市にあった)の訓導捕に採用されたのが教職の始まりでした。これより遠北小学校(遠山にあった)・砂子沢小学校(岩手郡、現在は盛岡市)を経て再び遠北小学校にもどり、さらに同三十年には星山小学校訓導に捕せられました。この間、各種の講習を受けながら独学で小学初等科教員と尋常小学校本科正教員の免許状を取得しましたが、その検定試験を受ける際、年齢が不足であったところから、実際は慶応元年生まれであったものを文久三年生まれにして受検したという裏話が伝えられています。星山小学校在職中の明治四十三年には同校の校長に任用されましたが、大正三年にいたって退職されました。
八重島茂(文久三~昭和五)は大巻の人。明治十六年に岩手師範学校を卒業後、気仙郡吉浜小学校を初めとして大巻・彦部・星山の各小学校訓導を歴任し、同三十三年九月に星山小学校長に昇任されました。そして、明治三十七年に退職後も引続き同四十二年まで代用教員として勤務しています。
青山達輔(安政五~昭和十三)は上平沢の人。明治十四年から同三十八年まで上平沢小学校に勤務(二十四年八か月)した後、南日詰・赤沢の両小学校長を歴任して明治四十二年に退職されました。
付記
前号の上段に列記した人々のなかに、「戸塚玉司」を追加させていただきます。同人の教職歴をご存じの方は筆者までご連絡下さるようお願いいたします。

 


---佐藤 正雄(故人)---

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