ふるさと物語 187 『教育をする人々(4)』 近代人物脈 (66)

「ふるさと物語」【187】〈昭和55年2月10日発行「広報しわ」(第295)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『教育をする人々(4)』 近代人物脈 (66)

細川久(明治六~昭和一三)は土館の人で、初め富治といいました。明治二十六年に岩手県尋常師範学校を卒業後、片寄・紫波両小学校の訓導を経て、同二十九年には片寄小学校長に任用されました。それより、上平沢・水分両小学校長を歴任しましたが、同三十五年には上京して東京府の教員に就任しました。なお、後年には選ばれて志和村長や岩手県会議員となり、その間、山王海溜池の国営をめざして心血を注いだことはすでに述べました。
大角小作(明治七~昭和一三)は赤沢の人。明治二十八年に岩手県尋常師範学校を卒業してから南日詰・赤沢両小学校訓導を歴任し、同三十一年に片寄小学校長に任命されましたが、四十五年以隣は紫波・稗貫・和賀・岩手の郡視学に任ぜられて大正十四年に退職されました。
菊池勝蔵(明治九~昭和二四)は小屋敷の人。明治三十年に岩手県尋常師範学校を卒業後、水分・南日詰・上平沢の各小学校訓導を経て同三十三年に上平沢小学校の校長に任命されましたが、それより水分・上平沢・不動・片寄の各小学校長を歴任して大正三年に退職されました。なお、片寄小学校長在職中の大正元年には「神さだませし新山の」に始まる同校の校歌を作詞しています。
藤原竹次郎(明治一二~昭和六)は小屋敷の人。明治三十五年に岩手県師範学校を卒業すると郷里の水分小学校に赴任しましたが、翌年には同校の校長に任用されました。次いで日詰小学校長に転じ、それより再び水分小学校長となって大正四年に退職しています。
戸塚玉司(明治一三~昭和二)は二日町新田の人。明治三十四年に岩手県師範学校を卒業すると直ちに不動小学校長に任用されました。時に二十一歳でした。それより煙山・徳田両小学校長を歴任しましたが、在職中の昭和二年に病死されました。
大沼大蔵(明治一三~大正一〇)は南日詰の人。教職歴としては、明治三十六年に上平沢小学校長に任用され、次いで赤石小学校長に転じて大正三年まで在職したことが知られますが、その他については定かでありません。

 


---佐藤 正雄(故人)---

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