ふるさと物語 190 『教育をする人々(7)』 近代人物脈 (69)

「ふるさと物語」【190】〈昭和55年5月10日発行「広報しわ」(第298)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『教育をする人々(7)』 近代人物脈 (69)

遠山慶次郎(明治二一生まれ)は紫野の出身。彦部・手代森両小学校の准訓導を勤務した後、岩手県師範学校に入学しました。そして明治四十四年に同校を卒業後は、片寄小学校訓導を経て大正二年には赤沢小学校長に任ぜられ、それより日詰小学校長・岩手県視学(七年八ヵ月)・一関小学校長・岩谷堂小学校長・盛岡国民学校長を歴任して昭和二十一年に退職されましたが、この間に高等官五等をもって待遇され、正七位勲六等に叙せられて瑞宝章を授与されています。その後は、赤沢村長・紫波町議会議員・紫波町教育委員(議会選出)などに選任され、その方面でも活躍しておられます。
北条韶美(明治二六~昭和二二)は土館の人で、初め喜一郎といいました。大正三年に岩手県師範学校を卒業すると日詰小学校訓導に任ぜられ、次いで大正十一年には上平沢小学校に転じましたが、ここで十六年二か月にわたって校長の職にあり、昭和十三年にいたって志和村長に就任のため退職されました。上平沢小学校在職中は特に郷土教育の面で活躍しておられます。なお、村長に就任後は、山王海ダム建設のために心血を注がれたことはすでに述べました。
藤井一三(明治二六~昭和四一)は宮手の人。大正三年に岩手県師範学校を卒業後、煙山・水分両小学校訓導を経て大正十年には水分小学校長に任用され、次いで飯岡小学校長・上平沢国民学校長・志和中学校を歴任して、昭和二十四年に退職しています。昭和三十一年には紫波町の教育長に選任されましたが、第三期目の途中で惜しくも病没されました。
阿部金右ェ門(明治二六~昭和一六)は土館の人。大正四年に岩手県師範学校講習科を修了。それより下有住(気仙)・徳田・上手沢の各小学校に勤務し、昭和四年以降は乙部・赤石・片寄の各小学校長を歴任して、片寄小学校長在任中に死去されました。この間に、高等官七等をもって待遇され、従七位に叙せられています。
(付記)
前号の竹内次郎の経歴のうち、矢沢(稗貫)とあるのは矢次(後の煙山小)の誤りでしたので、謹んで訂正いたします。


---佐藤 正雄(故人)---

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