ふるさと物語 191 『教育をする人々(8)』 近代人物脈 (70)

「ふるさと物語」【191】〈昭和55年6月10日発行「広報しわ」(第299)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『教育をする人々(8)』 近代人物脈 (70)

川村武雄(明治二五~昭和四八)は二日町の人。盛岡中学校を経て大正二年に岩手県師範学校を卒業しました。その後は、古館・彦部・見前・赤石の各小学校訓導を歴任し、大正十一年に赤石小学校長に補せられましたが、昭和六年に至って退職されました。
生内多蔵(明治二七~昭和四五)は上平沢の人。盛岡中学校から岩手師範学校本科二部に進まれましたが、この間に徳田小学校の代用教員を勤めておられます。そして、大正六年に師範学校を卒業後は、長岡・片寄・不動・見前・上平沢の各小学校訓導を勤め、昭和八年に星山小学校長に任用されました。それより、永井・佐比内・赤沢・片寄・岩手郡御明神の各小学校長ないしは国民学校長を歴任し、昭和二十一年に退職しておられます。この間に、高等官六等をもって待遇され、正七位に叙せられています。
弥勒地喜章(明治二八~昭和二〇)は上平沢の人。大正五年に岩手県師範学校を卒業すると水分小学校訓導に補せられ、昭和三年には片寄小学校長に任用されました。
次いで、岩手郡太田・上平沢・宮古町鍬ヶ崎・徳田の各小学校長または国民学校長を歴任しましたが、徳田国民学校在職中、同校に疎開していた盛岡連隊区司令部員の失火によって校舎が全焼したため、それに伴う過労が原因で現職のままなくなられました。この間に、高等官六等をもって待遇され、正七位に叙せられています。なお、庭球にすぐれており、明治神宮大会にも出場しておられます。
藤尾太郎(明治三〇~昭和三八)は片寄の人で、大正四年に岩手県師範学校講習科を修了しました。
それより、九戸郡小久慈・不動・水分・片寄の各小学校訓導を経て昭和九年には水分小学校長となり、次いで赤石小学校長に転じましたが、同二十一年三月をもって退職されました。この間、高等官六等をもって待遇され、正七位に叙せられています。また、青年団指導の面で大きな足跡を残されました。
なお、退職後は、志和村長や山王海土地改良区理事長に就任し、その方面でも活躍しておられます。

 

 


---佐藤 正雄(故人)---

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