ふるさと物語 197 『俳句をたしなむ人々(2)』 近代人物脈 (76)

「ふるさと物語」【197】〈昭和55年12月10日発行「広報しわ」(第305)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『俳句をたしなむ人々(2)』 近代人物脈 (76)

渡辺寿堂(明治三九没、八八歳)は、医業のかたわら寺子屋の経営にもあたり、後に日詰小学校の最初の教師を勤めた人です。俳号を鶯郷と称し、多作で有名だったといわれます。(前号で渡辺芳庵というのは寿堂の誤りでした)

関直治(明治三八没、六七歳)は、仲町に生まれて郵便局長を勤めた人です。俳号を一兆といいました。
北田儀助(明治三八没、四八歳)は、仲町の人で俳号を素赤と称しました。明治三十年ごろ北海道へ転住しています。
鈴木儀八(明治三八没、六二歳)は、新田町の小間物商で日詰町の収入役も勤めた人です。俳号を逸民といいました。
稲村善治(明治三九没、五五歳)は、習町の人で俳号は楓崖。明治の中ごろ、日詰町役場の吏員を勤めています。
佐々木雲峰(明治四四没、五四歳)は、勝源院の第二十一世住職で、俳号を至暁といいました。
八重樫某(本名、没年共に不詳)は、明治の初期に坂の下で旅館業を営んでいたといわれます。俳号は東戈。
阿部某(本名、没年共に不明)は、盛岡の人ですが、明治の初めから長く来迎寺に寄宿して俳句を友としていました。俳号を等水と称し、その句碑〈曠やかなものの悲しや鵜のかがり〉が来迎寺に現存しています。
田村甚五郎(大正元没、七九歳)は、新田町の海産物商で俳号を法雲(別号几風)といいました。明治の初年から木村半水について俳句を学びました。
中野旭立(大正二没、三五歳)は、来迎寺の第三十五代住職であった人。木村半水に師事して俳号を巴鳳と称しましたが、日浅くして他界されました。
大川種次郎(大正三没、五三歳)は、仲町に生まれて登記所の代書人をやられた人。木村半水に俳句を学び、素川と号しました。
村谷幸八(大正五没、七四歳)は、新田町の人です。十三歳の時から井筒屋に仕え、後に日詰町収入役や登記所代書人を勤めましたが、井筒屋当時から俳句を沢田喜兵衛に学び、中年から木村半水に師事しました。俳号は琴夕。(前号の常八は誤植です)

 


---佐藤 正雄(故人)---

この記事に関するお問い合わせ先
企画課 総合政策室
〒028-3392
岩手県紫波郡
紫波町紫波中央駅前二丁目3-1
電話:019-672-6884(直通)
メールでのお問い合わせ