ふるさと物語 200 『俳句をたしなむ人々(5)』 近代人物脈 (79)

「ふるさと物語」【200】〈昭和56年3月10日発行「広報しわ」(第308)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『俳句をたしなむ人々(5)』 近代人物脈 (79)

野村かつ(明治一五年生まれ)は、米穀商野村介石の母堂。俳句は鎌田松華に学び、妙海と号しました。また、歌道にもすぐれていました。
河嶋秀次郎(明治二〇年生まれ)は、もと土木管吏を務めた人。十八歳のときから俳句の道に入り、俳号を啻鳴と称しました。昭和二十四年から、藤田重次郎のあとを受けて「檞会」の主宰にも当たりました。
横沢吉之助(明治二八年生まれ)は、八戸の出身で日詰横沢家の養子となった人。八戸中学校卒業後、酒造社氏を務めていました。俳句は岩動尖天主宰の「俳星」により、五星と称しました。
佐藤政夫は、鍛冶町の種苗商佐藤政行の長男で「檞会」の同人でした。
大巻正一(明治四〇年生まれ)は、日詰町役場に勤務した人。俳号を一衣と称しました。
木村雄蔵(明治二七年生まれ)は、木村半水の孫。代々の家業を継いで医を業とし大衆から中風の先生で親しまれました。俳句は四十歳の時から藤田重次郎に学び如水と号しました。
次に古館地区においては、川村安之助・瀬川大忍・菊池英也・菊池峯治が知られています。
川村安之助(壺秋)は、下小路の人で、多年小学校の教員を務められた方です。俳句は明治の中ごろ鎌田青我の歩牛社に入り、後に紅葉会員ともなっています。大正十年没。六十三歳。平沢の八幡宮境内に顕彰碑があります。
瀬川大忍(月舟)は、長岸寺第二十二世住職であった人ですが、俳歴は定かではありません。大正十四年没。六十八歳。
菊池英也(卿雲)は、旧制の第一高等学校より東京帝国大学に進み、文学部史学科を卒業された方です。その後、花巻高等女学校長・福岡中学校長・盛岡高等農林学校講師等を歴任されましたが、昭和十八年からは悠々自適の生活に入り、旅行と俳句を友として余生を送られました。
菊池峰治(蓼壺)は、下町の人。好んで旅に遊び、その範囲は国内はもとより朝鮮・満州・カラフトにまで及びました。俳句は、あえて師匠をとることなく随所で多くの作品を残している。昭和四十六年没。七十九歳。

---佐藤 正雄(故人)---

 

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