ふるさと物語 19 長岡舘物語
「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。
「ふるさと物語」【19】〈昭和39年3月5日発行「広報しわ」(第104号)〉
長岡舘物語
斯波氏の頃、西長岡に長岡舘という城館があった。
その歴代の舘主については明らかでないが、里伝によると戦国時代の頃、新潟県の長岡
城から細川左京太夫高国という人物がここに移って居住し、長岡姓を称して代々斯波氏に
仕えたといわれる。高水寺城が落城するとき、斯波氏が最後まで頼みにしていた重臣に長
岡八右衛門という人があった。
この人は後に南部氏に仕えて千石を給されているから、かなりの大身であったと思われ
る。ただこの長岡氏は河村氏の支族であるという説があるので、細川左京太夫の子孫かど
うかにわかにきめがたい。
紫波郡が南部氏に占領された直後、片寄・肥爪・見前の三か城は破却されたが長岡城は
郡山城とともに残されている。この時の書上によると、長岡城は南部東膳助直重の持城と
なっているから、斯波氏の没落後南部氏から与えられたものであろう。この直重は南部氏
の一族であり、信直派の重臣であったことは確であるがその素姓は明らかでない。
おそらくは石亀氏の人であり、大炊介政頼がそれに当ると考えられる。政頼は南部藩主
の信直とはいとこであり、その子直徳は家老に登用されている。この本家は五代で断絶と
なったが、直徳の子直方は長岡村に二百石を加給されている。
慶長五年には斯波氏の残党が一揆をおこすという事件があった。この時山王海に潜伏中
の斯波孫三郎は、南部軍の主力が岩崎合戦へ出動した虚をついて失地回復の兵をあげた。
孫三郎は旧臣貝田与惣の手引きによって長岡城へ入る計画であったが、貝田が急に変心し
て長岡城に知らせたので、長岡城では城門をかたく閉じて防備をかためた。このため孫三
郎の計画は失敗して、北上山中へ落ちのびるはめとなった。里伝によると的場附近で合戦
があり、その時十数名の戦死者があったといわれるが、それはこの時のことであろうか。
−−佐藤 正雄(故人)−−−
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